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くつおと


小さい頃、歩くことが好きだった。
散歩が好きなわけではなく、「歩く」という行為が好きだった。もっと言えば、歩くときの靴音が好きだった。
空の青さや、小鳥のさえずりや、道端に咲く野花や、木々のざわめきや、頬をなでる風の暖かさや、景色のシークエンスや、そんなもの、年端も行かないガキんちょにとっては面白味もないただの風景だった。


僕が好きだったのは、歩くときの靴音だ。スニーカーのゴムの部分と地面との接着音が好きだった。とくにアスファルトを歩くときの音が好きだった。あの湿り気のある粘着的な音。あれが好きだった。砂地や草地は僕の好むところではなかった。砂の音はジャリジャリして乾燥していたし、草がはらはらと折れる音はなんだか寂しかった。


とくに、祖母の靴音が好きだった。


僕は保育園に通っていた頃から小学校低学年までの間、祖父母の家に暮らしていた。この頃、両親は離婚して、父はいなかったし(だからこの頃、祖父母といえば母方の両親ということになる)、母は働きに出て、ほとんど家にいなかった。だから幼少期の僕は、祖父母に育てられたといってもいい。ふたりとよく遊んだ。友達よりもふたりと遊ぶことの方が多かったかもしれない。



祖父とは将棋やキャッチボールをして遊んだ。将棋はほとんど毎日のように指していた。キャッチボールは祖父の体調が良いときに限った。小学校4年生で野球を始めたのも、いま思えば祖父とのキャッチボールがきっかけだったかもしれない。祖父が若い頃に草野球で使っていたというグローブは使い込まれ、しなしなになっていた。そのグローブが好きでいつも左手にはめていた。今も実家のどこかにあるはずだ。

あとは、たまにテレビドラマの『水戸黄門』を一緒に観たり、競馬のラジオを内容も全くわからないままにじっとそばで聞いていた。祖父は煙草をよく吸う人だった。吸い込んだ煙を輪っかにして吐き出す芸を見るのが好きだった。僕は何度もそれを祖父にねだった。祖父はそのたび、口の中に煙をためて、ふくらんだ頬に人差し指をツンツンとあてて、綺麗な煙の輪っかをポッポッと宙に放った。


祖母とはよく散歩に出かけた。
僕は靴音が好きだが、なかでも祖母の靴音がいちばん好きだった。すごく元気な人で、歩くのも速かった。
僕は音に集中するため、祖母の少し後ろを歩いて、音を聞きこぼさないように祖母の歩く靴をじっと見ていた。

靴が地面に接着する瞬間の音と、靴が地面から離れるときの音は微妙に違う。僕はどちらも好きだが、どちらかといえば後者が好きだった。だから祖母の少し後ろをいつも歩いていた。

同じアスファルトでも場所によって音はちがう。音の出にくいところもあれば、よく音の出るところもある。音のよく出るところに来ると僕は嬉しくなって、自分でも音をいっぱいたてようと、地面を力強く踏むように歩いたが、そうやっても音はうまく出なかった。この頃は音のよく出る歩き方を研究していた。

そうやって散歩の始めから終わりまで、音ばかりを気にして歩いていた。

そのせいなのか、僕は歩くとき、いつも1メートル先の地面を見て歩いてしまう。周りから見たら俯いて歩いているように見えるだろう。というか、実際に俯いて歩いている。そんな癖がいまだに抜けない。


大学生になって、友人に歩き方を指摘されたことがある。「お前、いっつも下ばっか見て歩いてるよな。危なくない?」と言われてハッとした。その頃から人の歩き方に注意してみた。みんな前を向いて歩いていた。
周りの人がどんな風に歩いているかなんて気にしたことがなかった。僕は人の靴ばかり見ていたから。

みんなと同じになりたくて、前を向いて歩く練習をした。でも気づけばぐっと首を垂れて歩いていた。

その頃から、空を見上げるようになった。
前を向いて歩くのは難しいけど、空を仰ぐことなら僕にもできた。でも歩きながらは難しい。いつの間にか立ち止まって空を仰ぐ癖がついた。夜空に月や星を探すようになったのもこの頃からだと思う。


小学校4年生になったあたりから祖父母と遊ぶ機会が減った。
祖父が病気がちで、入退院を繰り返していた。僕は学校の帰りにひとりでこそこそ病院へ入り、祖父の見舞いをしていた。見舞いといっても、当時の僕としては、普段なかなか遊べない祖父と遊ぶチャンスくらいにしか思っていなかった。学校の帰り道、病院の裏手にある林を抜けて病室まで行くのが、「侵入」する感覚に似て、僕を楽しませた。


この頃、母が再婚した。新たな家族ができて、新たな場所に暮らした。

この頃から少年野球チームに入った。土日はほとんど練習や試合をしていた。それと併行して、スイミングスクールや、進学塾にも通い始めた。
いつの間にか家族の間で、私立の中学校に通うという話が出ていた。なんでそんな話が出たのか忘れたが、その頃はちょうど中学受験が流行りだした頃で、クラスにも僕と同じように受験を控えた子が何人かいた。もしかすると流行りに乗っただけかもしれない。

とにかく毎日が忙しく、塾の宿題が多すぎて半べそかきながら勉強していた。
野球だけは楽しかった。白球を追いかけている間は勉強のことを忘れられた。


第一志望に落ち、第二志望にも落ち、第三志望の学校へ入学した。僕は勉強のできる子どもではなかった。

中学では、もちろん野球部に入った。地元の少年野球の頃とは違って、上下関係は厳しく、練習も辛かった。でもなんとか食らいついて自分の学年の試合にはスタメンとして出場した。


中学2年生になった。
校庭の桜はきらきら色づいて、散るときは桜吹雪が見事だった。新緑が繁って、白球が青空に消えた。


祖父が、死んだ。


夜中だった。とっくに寝ていた僕は父に起こされ「じいちゃんが危ない」とだけ告げられ、父の運転で病院に急いだ。母、叔母、祖母はひと足先に病院に着いていた。
僕が祖父の病室に駆けつけたとき、あるいはその一瞬前、祖父は息を引き取った。ピーーー、という音と、母たちのすすり泣く声だけが病室に響いていた。祖父は最期、娘ふたりの名前を微かな声で呼んでいたらしい。

あの、ピーーー、という音。あれが耳にこびりついて離れない。この音が本当に心臓の動きを表しているのだろうか。心臓が動きを止めて、ピーーー。人の死が、あんな音に変換されるなんて。僕は祖父の死をすぐには信じられなかった。涙の一滴も流れなかった。


この頃から、僕は歩くときの音を気にしなくなった。あの、ピーーー、という音が、僕から音に関する世界の一部を切り取ってしまったのかもしれない。


あれから10年近く経って、ずっと元気だった祖母が倒れた。脳梗塞だった。
命に別状はなく、現在はある程度回復している。でも体に痺れが残って、以前ほど上手く体を動かせなくなった。
外で散歩はもうできない。

僕は祖母の歩く靴音がいちばん好きだった。
でもいま思えば、元気に歩く祖母のうしろ姿が好きだったのかもしれない。
小さい頃の僕は、じいちゃんばあちゃんっ子だったから、ふたりと遊んでいるときがいちばん楽しかった。


今となっては、僕は無類の散歩好きである。
休日なんかは何時間でも歩いてしまう。空の青さや、小鳥のさえずりや、道端に咲く野花や、木々のざわめきや、頬をなでる風の暖かさや、景色のシークエンスや、そんなものを好むようになった。

散歩は基本的にひとりで楽しむ。何時間でも歩くから、僕の散歩に付き合ってくれる人なんて周りにはほとんどいない。


ひとりで歩いていると、ふと、祖母のうしろ姿を思い出す。うしろ姿というより、うしろ靴姿とでもいおうか。あのゴムとアスファルトの湿っぽい粘着的な音とともに、記憶がよみがえる。

そういうときは決まって、僕は俯きがちで歩いている。大人になった今もその癖は抜けない。
むしろ最近では、意識して俯くことさえあるほどだ。意識してようが無意識だろうが、結局俯いてるから、姿勢に変わり映えはない。


都内の雑踏のなかを歩くと、いろんな足音が聞こえる。
革靴や、ヒール、もちろんスニーカーも。
でも僕の探している靴音はそこにはない。僕の好きな靴音はそこにはない。
僕の好きな靴音は、僕が俯いているときに、ふと、聴こえてくる。俯いて歩くときにだけ存在する僕だけの靴音。大切な音。


だから僕は、俯いて歩く自分のことがちょっぴり好きだったりするのだ。




ではまた。


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