【030】ブッダの生涯-【6】(仏教哲学の世界観第2シリーズ)
お釈迦さまの悟り=十二支縁起について
前回は最古の仏伝の始まりについての解説でした。
仏伝はお釈迦さまの悟りの場面から始まります。お釈迦さまが何を悟ったのか、仏伝では「十二支縁起」となっています。
しかし、資料によっては三明であったり六根の清浄など異なる表現で悟りの内容が伝わっています。
このことから悟りは単純な言葉では表現することが難しく、多角的な考察が必要であるとしています。
今回は仏伝の最初であり最も重要な、お釈迦さまの悟りについて仏伝で描かれる十二支縁起の概要を解説されています。
ブッダの生涯6
https://youtu.be/1N6VC5-2Rsc?si=7odlX-QOfx3NZDCD
AIによる要約
学習した事
悟りの内容とはなんだったのか?
お釈迦さまの悟りとはなにか。
資料としては色々とあるが、内容も異なりその全容は一言では説明することができない。
もっともよく知られているのは、律の冒頭であり最初の仏伝に記された「十二支縁起」である。
他の資料では「三明」であったり「六根の清浄化」などがある。
十二支縁起の概略
十二支縁起とは、12の要素が順に原因と結果の連鎖で構成されている。
ドミノ倒しのように原因が結果となり、結果が次の原因となる。
これが12の段階としてつながっているために十二支縁起となる。
しかし、この十二支縁起が、果たしてお釈迦さまが本当に悟りで体得したのかは疑問が残る。
その理由は、他の経典においては12支ではなく、4支や5支など少ない数の連鎖を語るものがある。
これは短い数の原因が後の時代の人の考えによって数が増えていったのではないかと考えられている。
その一方で、お釈迦さまは実際に12支を悟り、後で短く省略されたのではないか。という考え方も成り立つ。
したがって、果たして十二支縁起はお釈迦さまが本当に悟った内容だったのかどうかは現在においても意見が分かれている。
さらに、十二支の内容に関してもよくわからない点が多い。
ひとつひとつに関しての明確な説明が無いためである。
このため、この解釈についても様々な仏教徒や仏教学者が考察しているだけであって、確信を持った回答は得られていない。
十二支縁起のおおまかな内容
一応の解説としては十二支縁起は以下の通りとなっている。
無明
明は「知恵」のこと、つまりそれが無い状態
行
意思作用
識
迷った心
名色
名は現実の世界の認識部分、つまり言葉
色は名(言葉)で定義された現実の物
六処(六根)
認識器官
視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚、心
触(そく)
外界からの刺激に対する認識
名色という言葉上の定義と実物の二重構造をベースに受け入れたもの
受
触によって受け入れたものを解釈する
例えば音楽をうるさいと感じるか、心地よいと感じるか
甘い食べ物を良い物と感じるか、悪い物と感じるか。など
愛
受を元に発生する好み
取
愛をもとに発生する執着
有(う)
取をもとに自分の欲しいものを手にいれようと行動する様子
生
有をもとに繰り返す人生全体
老死
生の結果
愁・悲・苦・憂・悩
最終的な苦しみ
これらはあくまでも十二支縁起の解釈の一つに過ぎないので注意が必要である。仏教の長い歴史においてはいろいろな解釈が現在においてもなされている。
したがって、一口に十二支縁起と言っても説明する人の理解の仕方が反映されてしまう事が、その後の仏教の様々な発展の要因ともなっている。
お釈迦さまの悟りとはなにか?
という問いに対しては、十二支縁起だけでなく三明や六根の清浄などの異なる説明があるし、十二支縁起に限ってもその解釈は異なってしまうため、お釈迦さまの悟りを完全に表した説明は存在しない。
しかし、このことが逆にお釈迦さまの悟りに対する真実性を担保しているとも言える。
なぜならば、お釈迦さまの悟りとは、一言で表現することは不可能なほど立体的で深淵なものであるという事に他ならないからである。
結局のところ多角的な証言によってのみ表現されるものとなる。
感想
この世の誰が「お釈迦さまの悟り」を理解している?
これはなかなかにめんどくさい問題。
それなのに仏教の根幹に関わる重要な問題。
結局よくわからないのであればお釈迦さまの得た悟りと同じものを得ることは不可能なのではないだろうか。
それでも仏教徒は悟りを目指す。
悟りがなんなのかがよくわかっていないまま目指す。
可能なことはあらゆる解釈の「他人による」又聞きを分析するしかない。
内的宇宙の理解の仕方
悟りの本質を理解するには「実感」が必要不可欠だと思う。
十二支縁起で表されている様々な場面・機能は頑張れば解説のとおり様々な角度から検証することで推測し、最終的にその意味自体は理解できるだろう。
しかし、結局は知識という名前の記号化された情報の集積でしかない。
例えればスポーツ観戦に近い。
野球のルールを知り、トレーニングの内容や試合での駆け引きなどを知識として理解していても、それは観戦しているだけで野球をプレーしていることにはならない。
本当に野球を体験するには自分がプレーする以外にない。
そして一流の選手が持つ高みを知るには自分が一流の選手になるしかない。
例えば、算数の計算ドリルを解くにあたって、解答を見ただけで問題が解けるようになるだろうか。
結局問題を解くには自ら計算をしなければならない。
その上で間違っていないかを確認するために正答を確認する。
こんな感じで、今回解説された「十二支縁起」も仏教を理解するためのものというよりも、実践した後で認識を確定させる「答え合わせ」だったのではないかと思う。
「悟りとはなにか」という問いに対して、言葉で説明ができないのはそういうことなのだろう。
実践以外は単なる飾り
となると、こういったことに必要な知識は目的の設定と実践方法しかないだろうと思う。
「自らの苦しみからの脱却」という大テーマ、目的があり
具体的に「三学」を実践する。
効率の良い瞑想方法というテクニック論や戒。
環境を整えるための僧団組織や律。
こういった細かい話はあるだろうけど、それはあくまでも補助的な要素であって本質ではない。
それなのに、こういった表面的・補助的な話や、お釈迦さまへの憧れが肥大化して仏伝や仏教哲学、芸術・文化となっていったのではないかな?と思っている。
十二支縁起は目的地までの路線図説
今回の「十二支縁起」の解説を見た時に、僕は変性意識を体験した時のことを思い出していた。
全部ではないけれど、ところどころ同意できる感覚があったのだ。
僕の場合は「なぜこうも孤独を感じ、それが苦しさに感じるのか?」という問いから始まった。
この苦しさの正体は一体なんなのか。
そこから───
現状抱えている問題について、片っ端から因果関係を洗い出し、反省すべき過去の行動を検証
思いつく限りあらゆる可能性をシミュレーション
時間や立場、性別、性格、遺伝、生まれ、言語、育ち、季節、時代、政治などあらゆる側面から考察。
それらが時間と共に変化する可能性を意識。
同時に普遍性のあるものとして成立するかを意識
これらの事を、自分が今思考している瞬間から次の瞬間への時間経過による思考の変化を再計算
再計算の時間の誤差を無くすために計算速度を限界まで上げる
これらの事を最終的にはほとんど同時に思考した。
同時に思考しなければならない理由は時間による変化があるからだ。
この思考のオーバーロード状態に至る時、僕の思考はコントロールを失い、壊れた機械のように止められなくなった。次の瞬間、何かの力で上後方に「ひっぱられ」、変性意識状態でアレを体感した。
その内容は今回は書かないが、
このオーバーロード状態になるまでに行われているシミュレーションは今回の解説にあった十二支縁起の内容と被っている。
苦しみの原因を探るわけだから当然かもしれない。
何が言いたのかというと、
十二支縁起も「悟り」の内容というより
その過程の様子なのではないだろうか。
自分で自分の心の苦しみを解決しようと瞑想をすると、結局このような因果関係の検証がはじまり、その検証の先に悟りがあるということではないかと思う。
例えると新幹線で目的地に到着するまでの車窓から見える風景
とでも言おうか。
東京駅から行ったことのない新大阪駅へ初めて向かう時、右手に富士山が見えたのであればちゃんと東海道新幹線に乗っていることが確認できる。
新横浜駅や名古屋駅、京都駅を通過していれば新大阪に向かっている事がわかる。
でもいくら路線図を暗記したところで、実際に目的地に行かなければ当然目的地には到着しない。
だから、本質的にいくら十二支縁起を暗記したところで悟りを得る訳ではないのだと思う。
実践した者がゴールに向かう途中で垣間見えている物が、正しく目的地へ向かえているのかを確認するのに使えるわけだ。
つまり十二支縁起とは、お釈迦さまの提示した「答え合わせ」なのだろう。
次回は「ブッダの生涯7」 (仏教哲学の世界観 第2シリーズ)
佐々木先生の解釈による仏陀の悟りの理解について語っておられます。