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【040】ブッダの生涯-【16】(仏教哲学の世界観第2シリーズ)
中道とはなにか
お釈迦さまが到着した「鹿野苑」では5人の比丘たちと再会しました。
かつてはお釈迦さまと共同生活を行いながら苦行をしていた彼らは、苦行の無意味さに気づいて去っていったお釈迦さまを修行から逃げた落伍者として認識していました。
しかし、いざ現れたお釈迦さまの姿を見た彼らは思わず旅人をもてなす礼を尽くした挨拶をしてしまうのでした。
そしてお釈迦さまは自らを彼らの先生であると主張し、修行の本質を伝えるとして彼らに説法を始めます。
今回はこの、初めての説法である「初転法輪」の内容について解説されています。
このシリーズでは僕が仏教について学んだことを記しています。
主な教材は仏教学者で花園大学の教授をなさっている佐々木閑先生のYouTubeでの講座の内容をまとめています。
もちろん僕の主観によるまとめなので色々と解釈の違いや間違った理解があるかと思います。
それはX(Twitter)などでご指摘いただけると幸いです。
あくまでも大学生の受講ノートみたいなものだと考えていただけると幸いです。
ブッダの生涯16
https://youtu.be/PIizSHnPQ_w?si=kVV1ZVSf19NUOAqj
AIによる要約
このスクリプトは、初転法輪の話題を通じて、お釈迦様が提唱した中道の教えについて解説しています。中道は、修行において適切な姿勢を保つことの重要性を強調し、過度な厳しさや怠けていることのどちらも誤りとして指摘されています。お釈迦様の教えは、自己の力で変化を求める仏教の本質を反映しており、信仰だけに頼るのではなく、自らの努力を通じて進歩を遂げることを促しています。また、輪廻や言語表現の問題についても触れており、現実を正しく理解するためには言葉に縛られず、本質的な世界を見つめ直す必要があると述べています。
学習した事
お釈迦さまが初転法輪で説いた「中道」は修行をするにあたっての心構えであった。
ゆるすぎず、きつすぎず。
この中間を理解すべきと説いた。
宗教としては異質な「中道」
この考え方は世界における宗教としては非常に珍しい教えとなっている。
一般的に、開祖や神を据えた宗教においては
「ひたすら信仰せよ」と求める。
その信仰という思いが強ければ強いほど報われ救われることになっている。
しかし、お釈迦さまによる教えはそのような事を求めなかった。
あくまでも自助努力、自分自身の力によって救うという修行の宗教としている。
そのため、その修行自体が厳しすぎると上手くいかない。
かといって、修行を怠けていてはいつまでも救われない。
すなわち、仏教は信仰によるものではなく、自分の力で自分を変える試みによって成立する宗教となっている。
なお、この考え方はお釈迦さまの亡くなる時の遺言にも、
自灯明、法灯明として表れている。
お釈迦さまが説いた教えを基に、
それぞれが自分自身で努力していくべし。
そこには何かを信じなさい、そうすれば救われるといった考え方は無い。
最初のお説法において中道を説き、その生涯の終わりにも中道を説いた。
ここにお釈迦さまの教えが、完結した一つの閉じた体系になっているということがわかる。
このことから、中道とは仏教における本質中の本質を捉えているといえる。
その他の中道
仏教には、初転法輪で説かれた「中道」とは全く別の範疇における「中道」という概念が他に二つ存在する。
常見と断見を離れる中道
言語表現による規定を離れる中道
常見と断見を離れる
常見とは、死んだ後も同じ自分という存在がずっと続いていくという考え方である。
一方で断見とは、死んだ後は同じ自分という存在は一切存在しないという考え方である。
この二つの考え方は仏教の教えからすると正しくない。
いつまでも自分というものが生き続けていくという考え方と、
ある瞬間から自分というものは断ち切られるという考え方。
どちらも極端で正反対のものの見方である。
仏教ではそのどちらでもなく、それらの中間を取るのが正しいものの見方であるとしている。
仏教の考える涅槃と断見の違い
しかし、ここで疑問が一つ生じる。
仏教の目的はそもそも「涅槃」である。
涅槃というものは輪廻しなくなるという状態である。
輪廻しないということは生まれ変わるわけではないのだから、先に挙げた「断見」と何が違うのか?
これには仏教の考える主体の正体に違いがある。
「常見」と「断見」には
変わらない自己
という概念がベースになっている。
これはいわゆる「魂」であり、常見では人は死んでもその魂はずっと続くという考えで、断見はその逆に魂も消滅する。
仏教ではこのような考えを持たず
「変わらず存在する私という実在は無い」
と考える。
いろいろな要素がさまざまな関係性のなかで集まり時間と共に変容する雲のような存在が「私」であって、それが死ねばまた別の雲を形成していく。
本質的な、実在としての「私」というものが無い以上、輪廻するとは何が一体輪廻するのか?
このような問いにはすでに「何が」という主体を前提とした問いであり、仏教には回答不能である。
なぜならば仏教において普遍的な「何か」が存在しないからである。
つまり、輪廻について仏教に答えを求める場合、
「何が輪廻するか?」
ではなく
「輪廻とはなにか?」
と問う必要がある。
このような問いであれば仏教としては
輪廻とは、
さまざまな要素が集まって、ある一定の変容する集合体が生きており、それが死んでまた次の集合体へ変容していく現象とその繰り返しである───
と答えることができる。
ただし、その集合体には記憶がある。
繰り返す生の中には過去の記憶を思い出すこともある。
このため、記憶がないのだから輪廻を気にしなくても良いとはならない。
過去生の記憶を思い出す瞬間や状態もあり、その時に生きるという苦しみを思い出し、苦しみだけでできている自分というものを再認識することになる。
輪廻を人生の再スタートとして好意的に捉える人もいるが、一方で生きる苦しみを心底味わっており繰り返し生きることに絶望的になる人もいる。
だからこそ仏教は全ての人に役立つために存在しているわけではなく、
苦しみのなかでいきていると実感してしまった人のための宗教として存在しているのである。
言語表現による規定を離れる
もう一つの中道として
「言語表現による規定を離れる」
というものがある。
これは、その後の仏教の一つである大乗仏教が発展し、次第に哲学的な指向を深めていくと
「なぜ我々は現実の世界を正しく見ることができないのだろうか」という問いを持つようになった。
現実世界を正しく見ることができないから我々は苦しむわけだが、その根本原因である「正しく見れない理由」はなんなのか?
このことを突き詰めていくようになった。
結果、それは言語表現に問題があるという結論となっている。
言葉で表現するときにレッテルを貼ってしまい、現実と言葉との間に齟齬が生じてしまう。
本来ははっきりとした区分ができない状態であるにも関わらず、名前など言葉をつけてしまっている時点で現実に対する認識を切り刻み正しさを失わせてしまい、そしてそれが現実世界であると錯覚する。
そのため、世界を本当に正しく認識するためには言葉と言葉ではない中間を想定をして認識をする。
例えば
「Aがある」「Aはない」とした場合、その中間を想定する。
このように「中道」と言葉は同じでも内容の異なる「中道」が存在していることに注意する必要がある。
感想
お釈迦さまの教えに対しても中道で良いのか?
たしかに宗教と言えば「〜をひたすら信じよ」とか言うし、信仰心を試される的なイメージがある。
どっかのグルが言ってる「サレンダーせよ」というやつだ。
サレンダー、つまり開祖や指導者の言葉を全て完全に肯定してれば何も考えずに済むし、ある意味楽だろう。
僕としてはヘドが出るような話だが。
一方でお釈迦さまの説く中道では偏った思考を捨てよ、としているわけだ。
あくまでも自分の力で自分を救うためなのだから、どっかのグルにサレンダーするとかなんちゃら神をひたすら拝むという必要が無いのだろう。
当然、そのような偏りがないからこそ物事を中立に冷静に分析し認識することができる仕組みになっているわけだ。
とはいえ・・・
じゃあそもそものお釈迦さまの教えに対しても中道で良いのか?
というと仏教徒からすると怒られそうだけど。
前世の記憶は確定で存在している?
今回は初転法輪で語られた中道だけでなく、その後の仏教に登場する別の中道についての解説もあったが、「常見と断見を離れる」がよくわからなかった。
結局のところ魂(仮)の存在を認めているのかいないのか。
死後もその魂(仮)も変化しながら離合集散と変容を繰り返しながら輪廻するのか。
僕としては一応人間の生も死も蝋燭の炎と同じ「現象」でしかなく、フラクタルのように変化しながらあらゆる偶然の結果の一側面でしかないと考えているから科学的にも矛盾なく生命の営みという現象は想像がつく。
しかし、「何か」という主体の存在を否定してしまうということは、結果的には輪廻はあるようで無いと考えていいのではないだろうか。
しかし、今回の解説では「前世の記憶」の話が出ている。
つまり生まれ変わりがあるといっているわけで、記憶を引き継がせているなんらかの因子が存在しているということになる。
これはもちろん科学的には立証されてないだろうし、そんな人を僕は見たことがない。
で、もし仮に魂ではないにせよ「前世の記憶」を思い出す人が存在しており、お釈迦さまがそれを事実として認識したのであれば、仏教には「前世の記憶」を思い出させる技術が存在してしかるべきだろう。
なぜなら記憶とは経験であるわけで、前世の反省を生かして今生の修行に役立たせるなんてことは当然思いつく事であるからだ。
そのような技術というか、この場合「術」というのが仏教にあるというのだろうか?
あたりまえの話なのでは?
もう一つの中道、「言語表現による規定を離れる」については・・・
概要を聞いただけでは当たり前のことのように感じるのだけどそんなに凄い考え方なのだろうか。
前にも感想で書いたが、言葉というものはデジタルであり、どれだけ巧みに操っても説明対象そのものを完全に表現できているわけではない。
そして当然受け取る側も完全に受け取れるわけではない。
クオリアの考え方ってそういう部分じゃないかと思うが、とにかく言葉による表現をまるっきり信用しないのは当然のことであるし、問題は、じゃあその言葉を超える表現方法は何か?という探究には目が向かなかったのだろうか。
たぶん結果的には仏像や絵画、寺院などの美術に表されているのかもしれないが、それが果たして言語表現の代替としての結論を意識されたものなのだろうか?
真言、つまりマントラは発音や発声にかなりシビアで、一子相伝みたいに直接教わらないとダメ。という話を聞く。
実際その通りなのかもしれないけれど、それと今回の中道──「言語表現による規定を離れる」とは別の話だと思う。
テーマは「現実世界を正しく認識するには?」という事なのだから。
結局、この言語表現による規定を離れるという意味での中道は理解はできるが肩透かしを食らった気分だ。
そんな簡単なことを哲学としているはずがないので、おそらくこれからもっと複雑で難しい内容があるのだと思う。
次回は「ブッダの生涯17」 (仏教哲学の世界観 第2シリーズ)
初転法輪からすこし離れて輪廻の問題をもう少し深掘りします。