遠くをみつめる | チューリップ
2020年GW。これまでにない、黄金のGorogoro Weekとなった。
StayHomeな生活も、慣れたことには慣れてきて、今度は家から出ることが億劫になってきたくらいである。慣れってこわい。それでも、食べないと生きていけないし、食料を求めて近所のスーパーや、コンビニへ、散歩がてら出かける。家の近くにお店が色々と揃っているので、生きるためには困らない。ありがたい。だけどやっぱり、電車に乗って遠くまで、とは言わないけれど、隣町くらいまで足を伸ばして、見慣れた景色に刺激が欲しい。
今住んでいるエリアは、道を少し入れば閑静な住宅街で、それぞれの家の庭先、道路の植え込み、至るところに樹木や植物が植えられており、季節の花なんかも綺麗に咲いている。変わりばえのない近頃の生活だったので、街に彩りがある風景には救われる。
GWのある朝も、植え込みのツツジが綺麗だな〜とか、イチョウ並木の新緑が眩しいな〜とか、散歩していた。その時だった。最近目にする自然は、どれもピントの位置が、浅い。近くにある、手に取れる自然も、好きだ。花は、緑は、美しい。だけど、私の知っている自然って、それだけじゃない。
そこで感じた小さな違和感がなんだろうかと考えてみたところ、私の故郷の自然が深いピントじゃないと捉えられないものばかりだから、というところで納得した。そして季節的にも、この風を肌で感じるGWには例年帰省をしていて、もしかしたら心身ともにこの季節の「深いピントじゃないと捉えられない」自然を欲しているのかもしれないとも思った。
「深いピントじゃ捉えられない」自然とは、何なのか。
私にとってのそれは、圧倒的な高さの山々と、その裾野に広がる平野と、海。
家を出ると目の前に3000メートル級の山々を俯瞰できて、平たい土地に田んぼが延々と続き、自転車をさっと飛ばせば、15分ほどで海に着く。こんな景色も、大学生になって実家を離れるまで当たり前と思っていた、むしろその世界しか知らなかった。だけど、離れてみて、歳を経てみて、その良さと貴重さがしみじみと分かるようになった。そしてその景色は、ただの見覚えのある景色というわけではなく、五感に染みわたるレベルで自分の中に深く刻まれた記憶であり、心の拠り所だったということを、このGWに改めて思い知ったのだった。
そしてこのタイトルに「チューリップ」と付けているのは、そんな自然あふれる私の地元の県花がそれであり、球根の栽培が盛んで春先には「そのへんの畑にチューリップが咲いている」という景色が見られ(これもなかなかレアな光景だな…)、実際に「チューリップ フェア」という盛大な祭りを開催しているからである。
▲畑で、球根栽培中。
▼「チューリップフェア」(本物)。これまで何回か行ったが、なかなか圧巻のフェア。残念ながら今年は中止になってしまったようですが…。ぜひ、来年以降のGWの旅先候補に!
そんなこんなで、幼い頃から割とチューリップの花が身近な存在で、かつふるさとの記憶のフラッシュバックが重なり、このGWは狭い部屋でちまちまとチューリップの花を書いて(描いて)郷愁に浸っていた、というわけだ。
チューリップも調べれば調べるほど、いろんな品種・色の花があって興味深かった。そしてそれぞれのお花の名前も、実にかわいい。(ワタシ的にヒットしたネーミングが「雪うさぎ」という一重咲きの白いチューリップだったのだが、これはわが故郷ではなく、お隣の県で開発された品種だったらしい。笑)
パソコンやスマホを開けば、地球の裏側にいる友達とも繋がれる。時代を超えた過去の映画だってすぐに見られる。画面越しの世界には、時間も空間も無限に広がっている。だけど、どうしてもスクリーンとの物理的な距離があまりにも近い。ピントが浅い。目が、疲れてしまう。それは画面が近いからだけなのか、画面から発される強い光だけのせいなのか。
先が読めない日々だからこそ、どうしても近くしか見えない。見ることができない。
だからこそなおさら、遠くのずっと向こうまで目線をやらないと見えない景色を求めている。人の手では決して作ることのできない、そして壊すこともできない、圧倒的な大自然を、いま心が身体が、渇望しているのだと思う。
追伸:…と書いておきながら、地元暮らしがベストかと言われると、やっぱり都会にしかないものもあるわけです。知ってしまうということは、選択できるようになるということ…要はバランス…。贅沢でごめんなさいね。笑 せっかくなので、贅沢に生きちゃいます。
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