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「食べることは生きること」/2月21日

もともとそこまで料理が得意ではないが、一人暮らしをしていると「自分だけの食事」を用意することがなおさら億劫になる。実家から送ってもらえる(これはありがたい)米を炊き、冷蔵庫にある食材を組み合わせてみそ汁を作ったらとりあえず及第点。メインを作れたら万々歳。面倒な時は躊躇せず、スーパーのお惣菜を投入してバランスのよい風な食事を用意する。
食べることが生きることに直結していること、よく噛んで味わって食べることが大事なのは重々承知だが、あまりに毎日のことすぎて、しかも1日に3度も訪れることだから、どれもこれもを大切にできていないのが実情である。

そこにコロナ。美味しい食事を外へ食べにいく機会もあまりなく、実家にも帰りづらくて、(甘えのかたまりだが)「誰かが愛を込めて」作ってくれるごはんを食べる機会も逃し続けている。食のバリエーションの少なさに拍車がかかっている。

そんな中、今日は春の陽気のもとでピクニックをし、とっても美味しいお弁当をいただいた。念願の、keicoさんのおべんとう。
まあるいうつわに、ぎゅっと詰まった具材の数々。こんなに品数が揃っているおべんとうをいただくのはいつぶりだろう。そしてそのどれもが、生まれ持った自然な色で彩りをはなつ。もう、すでに、おいしい。「食べる」という行為は、食べ物を口に入れることではなく、いまからいただこうとするものとこの目で向き合うところから始まっているのだと、再確認した。
手を合わせ、箸を取る。決して自分では出せない味、街のお弁当屋さんでも出会えない味。旬の食材そのものの味と、主張しすぎない味付けとの調和。これとこれを組み合わせるのか〜!という自分では思いもつかない食材の掛け算。どれを口に入れても優しさがじんわりと広がってくる。ああ、幸せだ。食べている、生きている。

箸を進めていると、いつもと違う感覚で食べている自分に気づいた。このおいしいお料理をゆっくりかみしめてずっといただいていたいという気持ちと、どんどん食べ進めたい気持ちが、拮抗しつつも、前者が勝っている感覚。そして、普段は、後者の食べ進めたい気持ちが圧倒的に勝ちきっているということ。

冒頭で書いた通り、私の食生活は「生きるために食べる」ことが主となるシーンが多い。そして一人で食べることが多い。そうなると、生活の行動の中で「食べること」の順位が、どんどん下がっていく。さすがにスマホを触りながら食事をすることは最近はしなくなったが、それでも何かを考えたり、逆に何も考えずぼーっとしながらだったり、とりあえず目の前の「栄養になりそうなもの」に対して意識を置いて口に運ぶ、という営みをすっかりほったらかしにしていた。極端なことを言えば「10秒チャージ、2時間キープ」と、さほど変わらない食との向き合い方をしていた。

大事に作っていただいたお料理は、その、無意識に口に「栄養になりそうなもの」を放り込むという行為に、「待った」をかけてくださったのだった。「食べることは生きることと直結する」ー意味を頭では理解しつつ、心の奥にストンと落ちきっていなかったその言葉が、今日のおべんとうと一緒に、じんわりと身体の中に溶けていった。

明日からも、また私の食生活は続く、続いていく。残念ながら、きっとすぐに自分の食との向き合い方を変えるのは難しいんだと思う。
だけど今日の、「食べたもの」「食べたこと」「食べたとき」は間違いなく私の「生きる力」になった、身体と心に、栄養がしみわたったから。春らしいやわらかな陽射しの下で、みんなで美味しいね、って笑顔で感動しながらいただいた「おべんとう体験」を心にそっと置いて、思い出して、暮らしていけたらな。

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