カエサル・シーザーから考える、突き破った時に気を付けないといけないこと
先日、『カエサル 内戦の時代を駆けぬけた政治家』(小池和子著、岩波新書)を読んでいて、心に残る一節がありました。
それは、古代ローマにおいて外征で実績をあげ、政敵を倒して独裁者となったカエサル・シーザーが、共和制を維持しようとする人たちに殺されるに至るまでになぜシーザーが嫌われるようになったかについてです。原文をそのままご紹介します。
「傍目にはきわめて順調に出世を遂げ、かなり自分のやりたい放題にしていたように見えるカエサルが、内心では自分に不満があり、ひょっとすると劣等感すら抱き、政敵に妨害され続けていると感じ、何か我慢を強いられていたということになる。
そういったものを突き破り、自分の威信を守り、それを誰よりも高めたいという気持ちが、彼の原動力だったように思われる。
(中略)だが、繰り返しになるが、そのような精神は同等の競争相手がいる限りは好きなように発揮しても構わなかったろうが、皆の上に一人だけ君臨する立場となってしまうと、途端に嫌悪の対象となる。」
私は、この一節を読んで、はっとするものがありました。確かに、生きているなかで、(そのスケールの大小はあれ)コンプレックスがエネルギーの原動力となることがあります。そのエネルギーで何かを突き破ると、時にはコンプレックスの対象だった人に見せつけたくなる衝動というのは、人間には誰しもあると思うのです。
しかし、そのような衝動のままに動いてしまうと、見せつけられた人は嫌な気持ちしかしないものです。その気持ちが直接表現されないとしても。
そのようにならないためには、何が必要なのか。正直申し上げれば、私はまだ未熟なので笑、必要ななものが何なのか、今は明確には分かりません。
ただ何となくですが、エネルギーをもち、突き破った自分は認めつつも、それを外に見せつけることによる相手の気持ちを思う余裕が必要なのかな、とは漠然と思ったりします。そのためには、誤解を恐れずいえば、相手を「競争相手と思わない」くらいの心構えの余裕も大事なのかな、という気がします。突き破ったのですから。
もっとも、私自身はまだまだ突き破れていないような段階と自覚していますが、自分も人間として同じことをしかねないと注意しようと、本書を読みながら思いました。