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人は善をなさんとして悪をなす

歴史上の人物を学んでいると、歴史の評価のなかでは大変非難されることをした人でも、恐らくその本人のなかでは強烈な正義や大義をもって行ったのだろうな、ということは多々あります。
現代におけるロシアのプーチン大統領も、ウクライナ侵攻は大変非難されていますが、プーチン氏本人のなかでは確たる正義や大義があるようにも感じられます。ここでは一つ一つ列挙しませんが、日本史においても、世界史においても、プーチン大統領のような例は枚挙にいとまがありません。
 
そんなことを日頃から考えていたのですが、先日、ベトナム戦争時にアメリカの国防長官だったマクナマラ氏の単独インタビューを映画化した「フォッグオフウォー マクナマラ元国防長官の告白」をみて、心に残る言葉があありました。それは、マクナマラ氏が第二次世界大戦、ベトナム戦争などの経験を経るなかで考えた教訓のなかにあった次の言葉です。
「人は善をなさんとして悪をなす」
(In order to do good, you may have to engage in evil.)

 
「そうなんだよな。本当にこれに当てはまることって歴史にたくさんあるのだよな。そして、歴史だけではなく、普通に生きていても、スケールの大小はあれ、同じことに陥ることはあるよな。」と感じてしまいました。
 
マクナマラ氏は第二次大戦時のルメイ将軍やベトナム戦争時のジョンソン大統領のことを指して話していましたが、自分自身も、国防長官の使命を忠実に果たそうとするなかで、ベトナム戦争の罪を背負ったことに気づいていたのではないでしょうか。本人は絶対に認めていませんが。
 
この「人は善をなさんとして悪をなす」を避ける方法というのは、大変難しいことで、簡単に言えることではないでしょう。この状態に誰しも陥ることはありえるのです、私自身含め。
 
一つ思うのは、「人は善をなさんとして」の「善」というのが、人間が何千年も正しいと考えるような普遍的な善なのか、という問いかけはあります。長い歴史の風雪を耐えてきた考えであれば、そのために悪をなす、ということにはならないのかもしれません。
 
しかし実際には、普遍的な善のみを信念とし続けることは難しく、どうしてもその場その時に善と考えるものも入り込んでしまうのです。そしてそのような「善の揺れ」のなかに、「悪をなす」余地が生まれてしまうようにも感じます。
 
普遍的な善のみを信念とできる強さがあるか。
高めるべき人間力のテーマの一つなのかもしれません。

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