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9/5 やきそば売ってる相模原店で

最近思ったこと。

親になったばかりの人が周りに多い世代である。食べたり飲んだり歩いたり転がったり音を出したり笑ったりとかを子供ができるようになったとかで感動して、かわいいとかすばらしいとか言っている。へえ確かにそうなんでしょうねと思うけれど、どうしていつまでもそういう気持ちを持ち続けられないんだろう。いつどうして、ただ健康に食べて笑っているということを喜べなくなってしまうのだろう。私の親も私がまだ言葉を話せない時くらいはそういうふうに思っていたのかもしれないし、思春期のたぶん一片であってもそういうふうに扱われていると私が感じていたら、今いろいろなことは変わっていたのかもしれない。私は気づけば片親でもまっとうな教育をさせたと親を証明する道具みたいになってしまった。アスペの片親に育てられて、ちょっといい大学に行ったくらいのことがまともになった証明になるわけないだろ。通学路でダンゴムシに心をもっていかれず学校にちゃんと間に合ったり、ブロッコリー残さず食べててすばらしいね、みたいな感じであつかわれながら日々過ごせていたらどんなによかったかもしれないけど、なぜそうできなかったんだろう。それだけじゃ足りなかったんだろうか。私も親になればわかると言われるのであれば、いつまで経ってもわからないほうを選ぶ。

「人はものを見たいように見る」というツイートが話題になっているのを見る。しかし、「人はものを見たいように見る」ことに共感するというのは、自分自身に対して、ああ自分はものを見たいように見ているな(それは自分自身がものごとをありのままに捉えていなかったというエウレカモメント)なのか、相手が自分を相手の見方で見たいように見ており、おれそのものを見ているんじゃないな(という安堵)なのかよくわからない。どういう思いでいいねを押しているのだろう。でもみんなに好かれている人はあまり見ないけど、みんなに嫌われてる人ってたくさんいるよね、と思った。みんなある人を見たいように見ながら嫌っていく。


中高年のネットリテラシーはガバガバである。ヤフコメにもSNSにも平等に、忌憚なくあらゆるニュースになんらか物申さなければ気がすまないくらいのペースでお気持ちを表明する。特にFacebookの記事は本名でのコメントである。おじさんおばさんたちはネットの匿名性という傘をかぶらず、在住地も学歴も家族構成もすべてフルオープンにしながら芸能人の記事に「河野太郎、やす子さんの爪の垢を呑め‼️悪霊の顔つきに総理なんかになれない‼️」みたいなことを書いている。なかには旧帝大学の先生で現職の人が皇室とか東出昌大をこきおろしたりもしている。

小学校の時、「明日があるさ」を歌った。歌詞の「やきそば売ってる模擬店」の漢字が読めなくて「模」の字が入っているからだと思うが、ひとりだけずっと「やきそば売ってる相模原(さがみはら)店で」と歌っている子がいた。

仕事のストレスで食欲の乱高下がすごい。仕事というのはなぜこんなにも体に悪いのだろうか?給与待遇の面で私の仕事はずっとましな方であるとわかっている。わかっていても、つらい。だからといって私のつらさが減免されるわけではない。去年の今ごろ(転職前)に戻りたいと思って去年の日記読んでみたけど、去年も去年でつらそうだし辞めたそうだった。なんだ、どこにいてもやめたいしつらいし向いてないんじゃん。ひとは過去を都合よく解釈しすぎる。昨日夜中の2時にしるこサンド一袋食べた。サックサクだった。シヅカ洋菓子店のクッキーもしるこサンドも値段20倍くらい違うけど、どっちもおいしいね。


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