Fate/Zero「雨生龍之介」の人格構造について ― 死の美と探究心の交差点
Fate/Zeroの他のFate作品に全く出てこない上登場分数15分以下でサジェストが雨生龍之介 グロであの考察系YouTuberキリンに名前をガッツリ間違えて紹介された人間オルガンだけ独り歩きしてるド畜生猟奇殺人鬼・雨生龍之介。
最悪の出だしで始まったが実際大抵の人にとってはそういう印象だろう。
さてここからが前書きである。
FGOとかやってる人だったら『死の芸術』や『天性の捕食者』でお馴染みだろうか。
彼について深く理解するには、原作を読んだ上で、設定資料集や関連作品まで追う必要がある。 それらを踏まえずに語るのは難しく、単なる表面的な印象で終わってしまうだろう。
とはいえ、本記事では彼の人格構造について手短に理解できるようにまとめている。あくまで考察の一環であり、公式の情報を整理・解釈したものにすぎないため、本記事の内容を「正解」と思い込まないようにしてほしい。
手っ取り早く彼の基本情報を知りたいなら、TYPE-MOONWikiを読む方が早い。 本記事は、公式設定をベースにしながらも拡大解釈を含むため、あくまで「彼の人格を理解する補助」として読んでもらえればと思う。
尚ここからは完全にネタバレ進行ですので、ご理解頂けますよう。
雨生龍之介という存在は、「猟奇的な衝動を持つ殺人鬼」としてしばしば単純に語られがちだ。しかし、彼の行動には突発的な快楽の追求以上のものがある。彼の行動原理には「探究心」と「知的欲求」が根底にあり、彼にとっての殺人は「快楽的な逸脱」ではなく、ある種の知の体系の一環として位置づけられている。これは単なる暴力衝動ではなく、死を通じて何かを理解しようとする「知の欲望」の発露だと言える。
それを示す象徴的な描写がある。
彼は「子供の頃に公園で砂利の数を数えたことがある」と述べる。結果は当然ながら途中で挫折する。「一万個やそこいらで諦めた」と語るが、そもそも彼は、砂利の無限のような広がりを前にしながらも、なお数えようとした。それは、「知りえぬもの」を知ろうとする意志の発露である。 そして彼は後に、砂利の数と同様に、人間の数の膨大さを知る。
無数の中の「ひとつ」─── それを数えることも、認識することも困難な状況で、彼は逆説的に「人間の命を個として認識する」ことに価値を見出すようになる。それが彼の殺人の哲学へと繋がっていく。彼は人を殺すことを「生産的」だと捉え、個の死を味わい、堪能することで、無数の中の「ひとつ」を深く知る行為に昇華している。 彼にとって、それは虚無への反抗であり、無限の中に個を浮かび上がらせる行為だった。
龍之介の行動には、バタイユの言う「エロティシズム」の原理が濃厚に見出せる。バタイユによれば、人間の性(エロス)と死(タナトス)は密接に絡み合い、究極の瞬間には「主体が自己を超越する」作用があるという。龍之介にとっての殺人は、単なる破壊衝動ではなく、死という瞬間の極限状態において、人間が自己を超越する姿を見届けることにあった。これは単なる愉悦ではなく、対象の存在を極限まで凝視し、その生と死を見極める「観察の行為」として機能している。
「死ぬ瞬間は人生の縮図だ」
彼のこの認識は、ユイスマンスの小説に見られる「肉体と精神の極限状態における美の発見」に通じるものがある。ジル・ド・レェが、戦場での死の美を「聖なるもの」として崇めたように、龍之介もまた、死の瞬間にこそ、人間の本質が凝縮されていると考えている。 彼にとって、殺人はその縮図を凝視する行為であり、それを通じて彼自身もまた「知」を得る。
彼自身、「昔は死が怖かった」と語る。 しかし、それは「死そのもの」への恐怖ではなく、「未知」への恐怖だったのではないか。彼は未知を恐れ、それを克服するために、それを「知ろう」とする。そして、その恐怖を越えたときに、死は単なる終焉ではなく、究極の観察対象へと変わった。彼の好奇心の根源は、単に暴力的なものではなく、「未知なるものを知りたい」という根本的な知的欲求に根ざしている。
彼の知の欲望と倫理観の欠如は、社会からの抑圧と結びついている可能性がある。
4巻の未遠川血戦において、彼はこう語る。
「ざまぁみろ」
「それまで後生大事に崇め奉っていた”常識”とかいうクソクダラナイ幻想」
「どうよオマエら?今日までずっと損してきたんだぜ、悔しいだろ、情ねぇだろ。」
ここには、彼が一般的な倫理や道徳観を「他人が作り上げた幻想」だと見なしていることが端的に表れている。彼にとって、社会的規範は抑圧であり、価値のないものだ。むしろ彼は、「知っていること」「弁えていること」こそが、本質的な価値を持つと考えている。知識を持つ者には風格と威厳がある。それが彼にとっての「COOL」であり、そこにジル・ド・レェという同好の士を見出したのだ。
しかし、ここで重要なのは、ジル・ド・レェはかつては敬虔なキリスト教徒であり、彼は「悪いことをしている」と自覚しながら人を殺している という点である。
ジルは神に抗いながら堕落し、龍之介は神を最初から必要としなかった。
この差異は、二人の行動が共鳴しながらも、本質的に異なる方向を向いていることを示している。ジルが「聖性の中の退廃」としてユイスマンス的であるのに対し、龍之介は「神なき世界の中での知の探究者」として、バタイユ的な極限へと向かっている。
彼は察しがいい。自らの命が危ういことを理解しているが、それを恐れることはない。むしろ、ジルの地雷を軽やかに回避しながら、彼と対話を続けることで、彼なりの「知的な愉悦」に耽る。互いの破綻した倫理観が交差し、そこで成立する共感。倫理の枠組みを超えた友情のようなものが、そこにはあったのかもしれない。
龍之介の最期について語る必要はないだろう。
その瞬間まで、彼はただ「知る」ことに夢中だった。
それだけで十分だったのだ。
もし彼の存在を深く理解したいのなら、アニメでも小説でも見ればいい。
言葉で説明するより、彼の行動のすべてが雄弁に語っている。
補足
ここで語った龍之介の人格構造は、精神分析的な考察へと繋がっていく。
彼はなぜ知を求めたのか?
なぜ死という「対象a」に囚われ続けたのか?
それは、彼自身が無意識のうちに何を求め、何を恐れていたのかという問題へと帰結する。
次に、この視点をラカンの精神分析の四基本概念と照らし合わせて見ていく。
Fate/Zero「雨生龍之介」の人格を精神分析的観点から見る
雨生龍之介という人物は、作中でも際立って異質なキャラクターである。彼の行動は、表面的には衝動的で猟奇的なものに映るが、精神分析の観点から捉えれば、一定の構造と論理性をもって解釈することができる。ここでは、ラカンの精神分析の四基本概念に基づき、龍之介の人格と行動の構造を考察していく。
1. 無意識
ラカンによれば、無意識は「言語のように構造化されている」。これは、無意識が単なる無秩序な衝動の塊ではなく、ある種の体系的な構造を持ち、象徴やメタファーを通じて表現されることを意味する。
雨生龍之介の行動をこの視点で見ると、彼の殺人行為は、単なる快楽や衝動に基づくものではなく、彼自身が認識していない無意識の欲求が言語のような形をとって現れた結果であると考えられる。彼は幼少期から「死」に対する異常な興味を抱いていた。これは、一般的な人間が避けようとする対象に対して、彼が特異な執着を示していることを示唆する。
彼にとって、死とは単なる終焉ではなく、「解明すべき現象」であり、「見極めるべき美の概念」である。このような価値観は、通常の社会的規範の中では育まれにくい。しかし、彼の無意識にとっては、それがあたかも必然であるかのように機能している。つまり、彼の無意識は「死を観察し、理解すること」を欲しており、その欲望が殺人という形で現れているのではないか。
また、龍之介は自らの行動に罪悪感を抱くことがない。これは、彼の無意識において、殺人行為が倫理的な禁止に結びついていないことを示している。通常、個人の無意識には社会的・倫理的な規範が組み込まれており、それが罪悪感を生み出す。しかし、龍之介の無意識には、そうした倫理的ブレーキが欠如しているか、あるいは異なる形で作用している可能性が高い。彼の無意識においては、「死の観察」が自己の存在を確立する手段になっており、それが抑圧されることなく発現していると考えられる。
2. 反復
反復とは、過去のトラウマや未解決の問題が無意識的に再現される現象である。ラカンにおいては、反復は主体が自らの欲望を理解しようとするプロセスであり、何度も同じ行動を繰り返すことで、自身の欲望や欠如に対する答えを見出そうとする。
雨生龍之介の場合、彼の行動は単なる「猟奇趣味の延長」ではなく、「死」に対する理解を深めるための反復行為として捉えることができる。彼が殺人を続けるのは、単に快楽のためではなく、未解決の問いに対する答えを求めるためであり、その問いは「死とは何か?」という極めて根源的なものである。
龍之介は、幼少期に特定のトラウマを持っていないとされる。しかし、彼が最初に手をかけた対象は姉であり、その後も家族愛に強い嫌悪を示している点から考えると、姉の死が彼にとって何らかの決定的な転換点になった可能性が高い。彼は姉を殺したことによって「死」という概念を一度手に入れた。しかし、殺しただけではその本質を理解することができなかったため、再び同じ行動を繰り返すことで、より深く「死」という概念に迫ろうとしたのではないか。
このことから、彼の殺人は単なる欲望の発露ではなく、未解決の問いへのアプローチであると言える。彼は「死とは何か?」という問いに対し、殺人を繰り返すことで答えを得ようとしているが、当然ながらその問いに決定的な答えは存在しない。したがって、彼の殺人は終わることなく続いていく。
3. 転移
転移とは、過去の重要な人物に対する感情や態度が、無意識のうちに別の対象に投影される現象である。精神分析の場では、患者が精神分析家に対して転移を行うことがあるが、龍之介の場合、その転移の対象は彼の殺人の被害者である。
彼は、実家に戻り、両親と対面し、ミイラ化した姉の遺体を見つめるという行動を取っている。この行動は、単なる回顧ではなく、彼の無意識が過去の重要な出来事に再びアクセスしようとする試みであると考えられる。
龍之介が無意識のうちに姉に対して抱いていた感情は何だったのか。彼が姉を殺した理由は明確には語られていないが、彼が家族愛を嫌悪していることや、「血の繋がり」という概念を軽視していることを考えると、彼にとって姉は「愛情の象徴」であると同時に、「抑圧の象徴」でもあった可能性がある。彼は姉を殺すことで、そうした抑圧から解放されようとしたのかもしれない。
しかし、彼の無意識は、その解放が完全には達成されなかったことを知っている。そのため、彼は再び姉に会いに戻り、あるいは姉に似た存在を無意識に求めながら、転移の対象として新たな被害者を作り続けているのではないか。彼にとって、殺人は単なる行為ではなく、自己の無意識の記憶と向き合うための手段になっている。
4.欲動
ラカンにおける「欲動」とは、フロイトのリビドー理論を発展させた概念であり、単なる生物的な本能ではなく、象徴秩序(ラング)と交差しながら形成される、構造的な力動である。
ラカンは欲動を「身体の穴(眼・耳・口・肛門)をめぐる」ものとして定義し、それが快楽の追求という単純なものではなく、むしろ「対象 a」を追い求めることで自己の不在・欠如を際立たせるプロセスであると考えた。
雨生龍之介の殺人衝動は、単なる暴力的な快楽や、猟奇的な倒錯とは異なる。
彼の行動は「死」という現象を通じて、自己の「欠如」に直面し、それを欲動として循環させるシステムになっている。
ラカンは欲動の特徴として、それが「満足することがない」という点を強調する。
欲動は決して充足されることはなく、常に「対象a」を追い求めるが、それに到達することはない。
龍之介の殺人もまた、同じ構造を持つ。
彼は殺人を繰り返しながらも、その行為に決定的な満足を得ることがない。
彼が「美しい死を求める」というのは、対象 aである究極の死の美を求める欲動の循環に囚われているからである。
しかし、ラカンが述べるように、「欲動は目的に到達するのではなく、その周囲を旋回する運動である」。
つまり、龍之介にとっての殺人は、「完全な死の美」に到達するための手段ではなく、「死そのものを探求し続けること自体」が欲動の動力となっている。
そのため、彼は決して満足することがない。
「対象a」としての死:不在への欲動
ラカンにおける「対象 a」は、主体が本来得られない「欠如そのもの」を象徴するものである。
雨生龍之介にとって、この「対象a」は「死の本質」、あるいは「死という現象を完全に理解すること」だと言える。
しかし、ラカンが述べるように、「対象a」は決して主体に回収されることはない」。
龍之介は「死」という対象を求め続けているが、それを手に入れた瞬間に、それは「彼のものではなくなる」。
つまり、殺人を通じて死を「観察」し、「理解しよう」とするが、死は彼の手の内に収まることなく、彼の外部に消えてしまう。
このことが、龍之介がなぜ「殺しに飽きた」と言いながらも、また新たに殺人を続けるのか?」という点を説明する。
彼は「死を理解すること」を欲動としているが、その「理解」は常に彼の手から滑り落ちていく。
そのため、彼の殺人は決して終わることがなく、永遠に「死の真理」を求める循環運動を繰り返す。
欲動は「他者の欲望」を通じてのみ成立する。
ラカンは、欲動が「他者との関係の中でのみ発生する」ことを指摘する。
龍之介は、「死」を単独で理解しようとするのではなく、「被害者の死」を通じて観察する。
これは、彼の欲動が「他者の死を通じて、自己の理解を深める」という構造になっていることを示している。
ここで重要なのは、「他者の死」こそが、彼にとっての「自己理解の装置」になっている ということ。
彼は「人を殺す」ことで、「死とは何か?」を自分の外部に投影し、それを通じて自己の「欠如(=死への理解の不完全さ)」を埋めようとする。
しかし、これもまた達成されることがない。
なぜなら、他者の死は「他者のもの」であり、龍之介自身の死ではない からだ。
彼は殺人を通じて死を観察するが、それは決して彼のものではないため、最終的に彼の「欠如」は埋められず、次の殺人へと続く。
雨生龍之介における「欲動」とは?
彼の殺人衝動は、快楽ではなく「死の真理」を探求する欲動の循環である。
しかし、ラカンが述べるように、欲動は決して充足されず、常に対象aを追い求め続ける。
彼にとっての「対象a」は「死の本質の理解」だが、それは決して彼の手に入らず、次の殺人へと彼を駆り立てる。
彼は「他者の死」を通じて「自己の理解」を深めようとするが、それは常に他者のものであり、彼自身のものではないため、欲動は尽きることがない。
このことから、雨生龍之介の殺人とは、ラカン的に言えば「満たされることのない欲動のスパイラル」そのものである。
彼の殺人は単なる猟奇趣味ではなく、「死の理解」を追い求める果てしない運動の中で、自己を喪失し続ける構造を持っている。
つまり、雨生龍之介は「死の理解」という幻想を追い求めながら、永遠に満たされることなく欲動を回転させ続ける存在である。
彼が20歳の時に姉を殺害した件は、彼にとって表面的にはプラスに見えるが、無意識下で彼の「トラウマ(強烈な体験)」になっている、という説を唱えたい。
ラカンにおける「トラウマ」の意義って「無意識に刻まれた強烈な体験」であってマイナス面だけではない。
表面的にプラス〜と書いているのにマイナスではないのはどういう事だ?と言う質問があるだろう。
簡潔に言うと、無意識への強烈な体験はプラスマイナスの二元論では語れず、強烈なものは無意識下で刺激が強すぎて抑制されることがある。
龍之介の苦手なものに「家族愛」があるが、それに関しての描写はない。
彼が殺人を反復し続けているのは、姉を殺したことが彼にとって「トラウマ」を再現しようとしているからではないか?
彼は家族という概念に関して何の価値も見出していなかったと言われがちだが、彼は家族という枠組みに価値を見出していないだけで、姉に対して何か思いはあったのではないだろうか?
むしろ家族愛を否定することによって自身の無意識のトラウマを回避しようとしている。
家族愛を拒絶することで、姉を殺したことに対する潜在的な葛藤を回避しようとしているのではないか。
姉を殺したことが彼の最初の殺人行為であったために、その経験が彼の無意識に強く影響を与え、その後の連続殺人のパターンを形成している。
私には、龍之介が姉に対してなんの感情ももっていなかった、というふうには思えない。
倫理観の欠如や価値観の歪みが生まれ持ったものだとしても、何かしらの葛藤を抱いて、殺人に至っているはずなのだから、その葛藤の始まりが姉であるのなら、何かしらの執着はあるはずだ。
彼の本当の人格形成が始まったのは、殺人を始めてからなのではないだろうか。
姉を殺していなかったとしても、彼は殺人者にはなっただろうが、家族愛が嫌いになった要因はそこにあるのではないだろうか。
まとめ
雨生龍之介の殺人衝動は、単なる異常者の突発的な行動ではなく、無意識の構造の中で一定の論理性を持っている。彼の殺人は、死を理解しようとする無意識の欲求、反復によって自己の問いを解決しようとする試み、そして転移によって過去の抑圧と向き合おうとする行動として解釈できる。
彼の行動は、倫理的に異常ではあるが、精神分析的に見れば、完全に不可解なものではない。むしろ、彼は「死の真理」を追求するがゆえに、終わることのない探求を続ける人物であり、その狂気こそが彼の存在そのものを規定していると言えるだろう。