アベノミクス時代が終わるにあたって、改めて「日本国債は無限に発行できるから何も問題ない説(≒MMT)」について考える。
SNSにおけるネットバトルにおいても、公式の政策論議においても、「日本政府は国債を無限に発行できるのだから何も問題ない」的な発想(≒”MMT”的なもの)に対する議論が激しくなっています。
昨日「令和国民会議(令和臨調)」っていう岸田首相肝いりの有識者会議が提言を出してたんですが、「アベノミクス時代への決別を提言している」ということで、SNSの金融専門家の人達が結構ザワザワしてました。
僕はもってまわった「役所の文書」を読むのに慣れてないからか、そんなに強い調子で「アベノミクスとの決別を主張」という感じには思わなかったんですが、それでもボヤッと要約された日経の記事よりも、実際の会議が出しているペーパーを読んでみると確かに結構踏み込んだ提言をしている面はあるなと思います。
本来のいわゆる「MMT」というのは、「無限に発行できるのだからアレモコレモ全て政府がカネを出しまくって解決すればいいのだ」という能天気なものではなくて、ある程度制約条件も副作用も理解した上で、それでも非常時にはこれをやる意味がある…というような発想だったと思うんですね。
だから、世界的な高金利時代が到来して、場合によっては結構日銀が追い込まれてしまう可能性も否定できなくなってきた現状においては、「無限に発行できる」という威勢のよい意見に対して徐々に反対論が増えてくるのは不可避な現象ではある。
ただ「凄い挑戦的」とか金融関係者内では言われていた令和臨調のペーパーを読んでもそこまで「明日から一切やめろ」みたいなことは言ってない感じではあります。
いわゆる「ジャブを打ってみる」とか「観測気球」とかいった発想で書かれている感じで、単純に言えば、
…という程度の事を言っていると考えていいのかなと個人的には受け取りました。
この程度のこと↑であれば、良心的なMMT派の人なら「まあそりゃそうだよね」という風に思う人も多いのではないでしょうか。
勇ましく「アベノミクスに決別」というよりは、時代環境が変わってきたので徐々に方針転換を考えていきましょうね・・・程度のことを言っているだけだと言える。
なんか、SNSのバトルでは、
…みたいな物凄く極端な例を出して、MMT派を馬鹿にしまくる議論が最近は流行りはじめていて、また一部のMMT過激派は「それでもいいのだ!」とか吹き上がったりしてワケガワカラナイことになっているなと思っています。
本来のMMT派が言ってるのはそんな極端なことではなくて、ある意味で過剰なほどマクロ経済学の基本に忠実すぎるようなロジックで、
という、一種「素朴な発想」に基づいているはずです。
ただし、この「素朴な発想」が本当に成り立つのかどうかが大問題なんですよね。
底に穴の空いたバケツのようなものに水を果てしなく注ぎ込みながら、なかなか水がたまらないねえ…と言っているのではないか?
…という疑念が消えない。
ある程度以上に「知的」で、盲目的にナニカに賭けたりする事は避けたいタイプの人間からすると、「バケツに穴が空いていないか」を確認することなしに、果てしなく水を注ぎ込みさえすればいいのだ…ということを続けることは、「じゃあ600兆円国債出したらGDP倍になってウハウハじゃん(まあ実際統計上はそうなるしね)」みたいな極端な例と同じような蛮勇に見えてしまう。
で、実際には、今後の日本の舵取りをどうするか…みたいな話をする時には、「理論」の部分だけで「国債の財源は税ではない」vs「そんなはずはない」みたいな平行線の議論を繰り返していても仕方がないですよね。
「伝統的な制約レベルを超えて国債を発行している」事はもう明らかに事実だし、それでも過去10年の日本があまりインフレしなかった理由は世界中の経済学者の誰も「本当の理由」などわかっていないはず(色んな”説”を好き好きに述べている例は沢山あるでしょうけど)。
だから「実際どうするか」を考えるには、「理論」の部分だけじゃなくて、社会・経済全体の現場感的なものと関わらせながら、「実際どういうことが起きているんだろうか?」を探っていくしかない。
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そういう意味で、今「どっちの側」に立っている人に対しても、「こういう風に考えていけばいいのではないか?」という提案をする記事をこれから書きます。
私はその「理論」と「現場感」の間を取り持っていく面において、ある程度ユニークな蓄積をしてきていて、その視点からの提案ができる経歴ではあると思っています。
外資系コンサル会社マッキンゼーで日米の経済学者が参加した比較研究のようなプロジェクトに参加していたこともあるし、逆に今は中小企業コンサルタントとして、実際にクライアント企業でここ10年で150万円給与を引き上げるようなことができた成功例もある。
つまり、今の日本経済をどう考えるべきか、という話において
・経済についての既存の理論的考察のトレンドを一応は理解している
・日本社会における実地の事例としての「賃上げ」問題を理解できる
…という点において、結構ユニークな示唆が出せる蓄積をしてきていると自負しています。
特に、アカデミックな経済理論家やエリート的な経歴のビジネスマンは、日本の経済の多くの部分(会社数で99%、従業員数で7割、付加価値額で5割)を占める「中小企業」で起きていることがどういう状況なのかをほとんど”寓話的”なレベルでしか理解できていない点が、「過剰にネオリベ的」になったり「過剰に保護主義的」になったりする両極端を生み出していると私は感じています。
結果的に、
「理論としての方向性」は正しいが、”ラストワンマイルの文化的配慮”が壊滅的に欠けているので、紛糾して何も進まなくなっている
…ということが今の日本には山積していると私は考えています。
その「インテリから見たら暗黒大陸」になってしまっている経済の大部分の実地体験と組み合わせ、「ラストワンマイルの文化的配慮」をちゃんとやっていけば、今までの党派的論争とは違う場所に日本経済の活路は見えてくると私は考えています。
単純化して私の立場を先程の例に引き寄せて言うと、
という事になります。
どういうことでしょうか?順番に考えていきましょう。
(いつものように体裁として有料記事になっていますが、「有料部分」は月三回の会員向けコンテンツ的な位置づけでほぼ別記事になっており、無料部分だけで成立するように書いてあるので、とりあえず無料部分だけでも読んでいってくれたらと思います。)
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1●「穴の空いたバケツ問題」と「イノベーション」
「日本で給料を上げていこう」とする時、いつも論争になるのは、「給料アップに”イノベーション”は必要か?」という論点です。
あなたはどちら派でしょうか?
「イノベーション不要派」の代表的な考え方は、経済全体を大きく見た時の需要と供給の観点だけから見る立場である事が多いです。一種の「マクロ経済学」的な発想を純粋化した視点だと言うこともできるでしょう(多くのアカデミックな経済学者は「経済学はそんな単純な学問じゃない」と怒るかもしれませんが)。
この記事冒頭に書いたように、そこにいわゆる”MMT”的な、「日本国債はいくらでも発行できる」という説が組み合わさって、
とにかく政府がとにかく溢れるほどお金を使って需要喚起をすれば、「需要と供給の関係」で給与は上がっていくのだ、給与が上がっていないとすればそれは「政府の支出による需要喚起」がまだまだ足りていない証拠なのだ
…というように考えている事が多いように思います。
誤解しないでいただきたいのは、私はある程度「MMT」的な発想に容認的というか少なくとも反対ではありません。
しかし、上記のように「政府が需要喚起しまくれば当然給与も上がる」という楽観論には「経営的な現場的感覚」から言ってあまり賛成できません。
その証拠に、2010年代のアベノミクス期を通して失業率はどんどん下がり、コロナ前は世界が羨む2%台にまで張り付いており、色んな産業で「人手不足」が叫ばれていましたが、それでもあまり給与は上がらなかった事があります。
経営側の「現場的感覚」から言うと人手不足になろうと「無い袖は振れない」からです。
実際に「人手不足(つまり労働需給がちゃんとタイトになったはず)」のアベノミクス期に日本中で観察されたのは、新しい人手が入れられないのを、既存人員の必死の過重労働でなんとか仕事を回す(しかも給与もあまり上げずにサービス残業で)…ような事になってしまう例が多かったのではないでしょうか?
それはまだまだ「政府支出」が足りなかったからで、もっともっともっと国債を出して政府支出をしまくれば給料は上がったはずなのだ!…と思いますか?
そうかもしれませんし、そうではないかもしれません。
繰り返すように私はMMT的な発想自体にはそれほど反対ではないのですが、それが「ノーリスク」な行為でもない事は昨今の円安などで徐々に明らかになりつつあるはずです。
こういう話をすると、「マクロ経済と企業経営を混同するな!」的な批判をする人がいるんですが、もしもっと「アクセルを踏み込む」をやりたいのであれば、
今やっていることが、”穴の空いたバケツに必死に水を注ぎ込もうとしている”ような事ではない事をしっかりと確認し、MMTに反対な人にもちゃんと説明していく必要がある
…のではないでしょうか?
そして、実際に「中小企業レベルで給与を10年で150万円上げる」事をやってみれば、何らかの「イノベーション」は必須だと考えざるを得ません。
栄養剤をいくら打っても、人の足で走っているうちはマラソン世界一レベルになっても自動車には勝てません。
特にアメリカのように、調子が良い時に給料を上げても不況が来たらすぐ首を切っていい社会なら話は別ですが、日本はほぼ国民全体の総意のようなものとしてそういう「首切り簡単な社会にはしない」と決意しているわけですよね。
それでも給料を持続的に上げていきたいならば、今までとは「やり方」を変えて、多少の景気変動を超えて安定的に高い給料を払える体制づくりをちゃんとやっていくしかありません。
ただし私がMMTに反対でないと言う理由は、先程の例で言えば「バケツの穴を塞ぐ」ことをちゃんとやって水がたまることを確認した上であれば、リスクを取って水をそこに注ぎ込むことには賛成だということです。
つまり継続的な「イノベーション」によって経営側の効率化をちゃんとやっていく機運さえ維持できれば、そこにさらにMMT的なブーストをかけて良いサイクルに持っていくことは大事なことだと私は考えています。
ただし、この「イノベーション」という単語ほど、現在の日本において誤解されている言葉はありません。
そこが、理論的方向性は正しくても「ラストワンマイルの文化的配慮」が欠けているから何も進まなくなっている点です。
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2●「イノベーション」は天才だけが起こせる特別なものではない。
「MMT的なマクロ経済的発想だけでなく実地のイノベーションが大事だ」という私の意見に反対する人達の多くは、「イノベーション」という単語が何か物凄い科学的発明や、破壊的なビジネスモデルの転換といった、数十年に一度レベルの天才的所業がなければ不可能なものだというように考えてしまいがちで、そこに誤解の根本があると思います。
特に「MMT的なもの」を批判する人達の中に、ある種「日本的なナアナアさ」が嫌いでそれを破壊したくて仕方がない人達がいて、
…みたいなフワッとした事を言う人が多く、それが余計にこの「イノベーション」という単語のイメージを間違わせているところがある。
そんなことを言うアナタはさぞご立派な「イノベーション」を仕事で成し遂げておられるんでしょうねえ…と思ってしまいますが、こういう発言をしまくる人ほど単に”GAFAの威を借るキツネ”みたいな人であることは多いですね。
勿論、国際競争に勝ち抜いて外貨を稼ぎ「日本円経済圏」の内側にとりあえずの安寧を生み出してもらうための「日本代表」的プレイヤーには、そのレベルのイノベーションを実現していってもらう必要はあります。
しかし、国内経済の大部分は別にそんな特殊な経済で成り立っているわけではありません。
あのアメリカでもIT産業はGDP全体の5%台でしかない。統計上他の産業に入っているけれども実質IT産業…という部分があったとしても、おそらく10%を超えたりはしないと思われます。
つまりあのアメリカにおいてすら「9割以上」の経済におけるイノベーションというのは、GAFAだ、ウーバーだ、人工知能だ…というような「天才だけが活躍できる領域」ではない。
残りの9割の世界で必要なのはもっと「等身大のイノベーション」であって、私のクライアント企業で10年で150万円ほど給与を引き上げられたのも、そういう「当たり前なことの積み重ね」なんですね。(勿論その取り組みの中に、等身大のIT活用も含まれる事は多いです)
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3●「等身大のイノベーション」のイメージ
「等身大のイノベーション」を考える時に、読者の方にイメージしてもらいたい事は、
「前は100人でやっていた同じ仕事量を、今は50人でやれている」
…というような物凄く単純な発想を大事にすることです。
こういう変化↑が起こせれば当然給料は上げられます。しかも、これは単にメチャクチャに社員を頑張らせてコキ使うような方法では実現できないので、当然さまざまな「等身大のイノベーション」を生み出します。
私のクライアントの事例そのものを語るのは守秘義務などで色々と問題があるので、ネットでさっきたまたま見つけた事例を紹介したいのですが、
神奈川県の「一の湯」さんという温泉旅館の経営者(サイゼリヤ出身)が、
…という話とともに、実際に行った施策について色々と書かれています。
私が言う「等身大のイノベーション」を実態として知っている人からすると、「そうそうこういう感じのことだよね」というように納得していただけるのではないかと思います。
過剰サービスの簡素化・DXの推進・無駄な会議をやめる・重要な業務だけを切り出してそこを専門にやる人材を育成して分業する…など、「当たり前なこと」をちゃんとやるだけで、「半分の人数で同じ仕事」を、特に無理なくこなすというようなことは可能であることがイメージできるはず。
特に「DX」といった時に、やたら「天才的データサイエンティストが分析してあっと驚く施策を出すイノベーション」をイメージするのではなく、勤怠管理や月次決算など、今までアナログに従業員が毎日毎月多くの時間を使って処理していた事務がIT化されて片手間にアプリで終わるようになる…といった効果をまずは重視することが大切です。
とりあえずは省力化が目的でデータ化されたものであっても、それを溜めていけば「改善の切り口」になる分析程度なら自然にできるようになるからです。
あとは、サービス簡素化した分の顧客満足度を補えるような、「省力化して上でできる嬉しいサービス(例えば購買を工夫して安く仕入れたレアな食材をふんだんに使った料理を目玉にするなど)」とか、「ちょっとしたアップセル(ついでにお金を落としてしまう仕組みづくり)」などを丁寧に積み重ねていけば、「10年で150万円ぐらい上げられる」ような変化は起こせます。
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4●「良い風潮」を壊してしまわないようにしながら変化させていくことが必要
こういう「等身大のイノベーション」は、ある意味で「天才」でなくでも誰でもできます。
誰でもできることですが、「それをやれる空気」「協力関係の基礎」はちゃんとないとできません。
日々のオペレーションにギリギリになっていて、なんとか明日を凌ぐ事で頭がいっぱいになっている会社ではなかなかできないことではあります。
つまり、読者の方にイメージしてほしいことは、「中小企業で10年で150万円給料を上げる」というようなことは、
・GAFA的に超天才がいないとできないというようなことではない
が、
・とりあえず日々前向きに色々工夫していけるぐらいの安定的な人心の安定が崩壊してしまっているとできない
…こういう領域にあることって沢山ありますね?
個人の生活に例えると、難易度的には「自炊して食費を下げる」ぐらいの課題だと考えるとわかりやすいと思います。
別に凝ったメニューを考えなければ、自炊をして食費を下げる…みたいなことは誰でもできそうに思えます。別にそんな天才的な才能は必要ない。普通にできている人からすれば「できない」ということが理解できないこともあるかもしれません。
ただしそれをやれるだけの「安定的な精神基盤」みたいなものが崩壊してしまっていると、ただ安定的に自炊する程度のことがなかなかできなくなり、毎食ウーバーイーツや出前館に(あるいは経済的に厳しければコンビニ飯やカップラーメンに)頼る事になってしまったりしますよね?
つまり、この「自炊レベルのことがちゃんとできる文化的基盤」を破壊しないようにしながら、時代に合わせた変化をいかに起こしていくかが重要なのです。
「MMTには反対ではないが、穴の空いたバケツに水を大量に投入する事になっていないか気をつけるべき」と書いたのはこのことです。
もし、この「等身大のイノベーション」を安定的にやっていける環境整備が崩壊したままだと、いかに政府支出をガンガン突っ込んでマクロ経済的要因で労働需給がタイトになっていったとしても、日本の会社の多くは
…という方向においやってしまいかねない(実際にアベノミクス期にはそうなりがちだった)からです。
では、この「自炊して食費を下げる」程度のことをちゃんとやれる健全性を社会全体で維持したまま、時代に合わせた経済転換を行っていくにはどうしたらいいのでしょうか?
・
5●方針として規模拡大を考えるべきではある。
先程の「等身大のイノベーション」の具体例を考えてみると、やはりある程度の規模がないとできないことは沢山あります。そもそも、「当たり前なレベルのDX投資」とかも、ある程度規模がないとできませんからね。
これはよくクライアントの経営者と話している事なのですが、従業員数5人の会社が10個あって、それぞれの経理担当者がいると、その10人の経理担当者は決算時には死ぬ思いをしますし、替えが効かないのでプライベートの事情でフレキシブルに休んだり産休制度を整備したりといった働き方改革的なこともできません。
これがもしまとまって、「50人の会社が一個」になれば、経理担当者が10人もいらなくて例えば3人いれば十分で、その「7人分の給料」を皆で分け合うことができて給料はあがります。また「その仕事」をやっている3人はお互いをカバーしあえるので、働き方改革的な意味でも柔軟性を持たせることが可能になります。育休とかも取れるようになるでしょう。
実際、記事冒頭で少し触れた、私がコンサルティング会社マッキンゼー在職中に参加した、日米の経済学者が協力した経済比較研究では、単純に「もっと生きるか死ぬかの競争をさせて勝ったところが吸収合併してチェーン化比率を高めれば労働生産性は上がるのになんでやらないの?」というメッセージをゴリゴリとデータを積み上げて論証するというものでした。
最近では、元ゴールドマン・サックスのアナリストで今は小西美術工藝社という日本の文化財の修繕補修を行う会社の社長をされているデービッド・アトキンソン氏が似たような発想の提言をされています。
「あまりに零細化されたままの日本の会社はある程度統合したほうがいい」というのは、ある種の経済・経営研究の世界においては「定説」みたいなものであることがわかるかと思います。
そして、ここまで述べてきたように、私の経営コンサル的な「現場感」としても納得感はあります。
ただし、「理論的方向性」としては正しくても、「ラストワンマイルの文化的配慮」が欠けているために進めることができていないのだと私は考えています。
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6●『尊王攘夷運動が明治開国政府を作った』というメカニズムを尊重して動かしていく必要がある
ではこういう改革はなぜもっと進まないのでしょうか?
答は、
・実は少しずつは進んでいる
・もっと進めたければ深い文化的配慮が必要
…ということだと私は考えています。
私のクライアント企業(いわゆる”小企業”でなく”中堅企業”サイズのもの)には、最近はよく会社を吸収合併しないか…という話が持ち込まれています。
「良い文化」が保持できている企業に対して、元のサイズの一割ぐらいの会社が持ち込まれて吸収され、文化的に統合されて、「良い文化」が崩壊しないようにしながらアメーバのように増殖していくプロセスが日本中で起きている。
さきほど紹介した「一の湯」さんも、今後拡大していくなら、「自炊して食費を下げる程度の健全性」も失ってしまった宿泊施設を次々と買収しては「文化的に統合」し、「良い文化」が崩壊しないように維持したまま拡大していく事になるだろうと思います。
結果として日本の「就業者数」はどんどん増えていますが、「会社数」は順調に減っており、必要な変化は「ゆっくりとだが確実に」起きていることがわかります。
こういうプロセスをどの程度「政策的に後押し」するべきか?は大変難しい問題です。
なぜならどんな政策も、「文化的なレベルで反感」を買えば余計に実現しなくなるからです。
そしてそれは、単に「頭の古い老害どもが必要な変化を拒否している」という話かというとそうでもない。
数字的に「効率化」ができるからといってありとあらゆる産業が資本主義的なチェーンビジネスだけに統合されていくと、「資本や学歴に守られていない領域」のモラルや、ローカルのコミュニティの人縁の崩壊を招いて、必ず大きな副作用があるからです。
「全国規模あるいはグローバル規模のビジネス」に支配された領域だけが「クリーンで快適」になるけれども、そこから排除された人びとの世界では「自炊して食費を下げる」レベルの健全性も徹底的に破壊されてしまい、どんどん荒廃していってしまう。
世界中、特にアメリカは「トップ層が果てしなく凄く、スラム的な底辺は果てしなくヤバい」国にどんどんなっていっていますが、日本はまだ一応「ローカル社会側の自律的安定性」が崩壊せずにいられている場面が多い。(まあ正直に言えば最近はだんだん怪しくなってきてますが国際比較ではまだマシな方なのは疑いない)
それは現状では資本主義的にはいろいろな「非効率」を抱えることで維持されているものではありますが、それを無理やり破壊して進んでは、「天才的なトップ層の力を引き出すことにかけてアメリカに及ばず、かつ日本的な社会の安定感も失ってどこにも強みがない国になってしまう」という最悪パターンになりかねない。
私はよく「水とアブラを混ぜ合わせる」という表現を使いますが、古い社会学の言葉でいうと「ゲマインシャフト(共同体的な人の繋がり)とゲゼルシャフト(機能レベルの繋がり)」を両立させるように持っていく…というようなことを丁寧に行うことが、これからの日本では大事なことなのだと考えています。
そういう意味では、MMT理論をちょっと批判しただけで溢れるほどの悪口雑言が投げかけられたり、「デービッド・アトキンソン氏は国際金融資本の手先だ」みたいな陰謀論が唱えられたりする事は、その事自体を単体で見るとあまり褒められたことではありませんが、日本社会が自分たちの独自性を崩壊から守りつつ、その上でちゃんと「変化」を取り入れていくためには「必要な免疫反応」のようなものだと理解できるのではないでしょうか。
非欧米社会においてはえてして、その社会の固有の問題に向き合って粘り強く解決を目指すのではなく「GAFAじゃこうなのに日本って終わってるよねえ」とか言うだけで自分は何もしない…みたいな風潮が止められなくなってしまいがちです。
そういう無責任さへの社会の抵抗力を維持しながら「変革」も同時に行っていくという非常に難しい二正面作戦が必要な領域がある。
19世紀末の欧米の帝国主義支配をはねのけた数少ない成功例の日本において、
「外国人を見たら斬り殺せ!というような尊王攘夷運動の狂気」が、結果として「明治開国政府を作った」
…のは偶然ではありません。
そこにある「狂気」レベルの強い執念が、「バラバラに海外資本に支配される植民地経済化」を免れつつ、「必要な改革」を行っていくために、特に非欧米社会においては必要なことなのだ…という理解をしてみましょう。
それが「さらにもっと改革を進めるために必要なラストワンマイルの文化的配慮」の部分です。
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7●MMT派のエネルギーを「尊王攘夷運動」のように使いながら転換していく
幕末の政治活動家の中でも、字義通りに”尊王攘夷”を信じて、ガイジンを見かけたら斬り殺してやる!と本気で思っていた人と、「それはそうとして」という感じで話を合わせて運動の熱量に利用しつつその先の未来を冷静に考えていた人がいるでしょう。
MMT理論に関する論争は、そういう意味で「そこに強烈な感情が渦巻いていること」自体を、理論の成否とは別に冷静に価値を認めて利用していく姿勢が大事だと思います。
なぜこの問題が現時点では急激に紛糾するかというと、じゃあMMT派の情熱が急に雲散霧消してしまったら、今度は逆の極端としてのやたら潔癖主義的な財政均衡主義に振り切れていって、一気に財政支出の大幅カット、大増税、高金利容認・・・みたいな事になりかねないからです。
それで結果として急激に大不況を呼び寄せてしまったら、もう「改革」どころの話ではなくなってしまいます。
だからこそ「改革をすすめる」ためにこそ、防波堤としての「尊王攘夷運動的なエネルギー」が必要なはずです。
つまり「無理やりな緊縮財政・大増税・高金利」へと吹き飛んでいって余計に改革が不可能になってしまったりしないためのストッパーとして、「尊王攘夷運動的なエネルギー」としての「MMT派の情熱」は必要なものだと思います。
だからこれを読んでいるあなたが「情熱的MMT派」なら、それを主張することをやめてはいけません。
そこは現時点で「押し合いへし合い」状態にしていきながら、この記事の最初で書いたように「バケツの穴を塞ぐ」実際的な転換はそれはそれとしてやっていくことが必要です。
あなたがMMT派の人だとしたら、そういう「マクロでなくミクロ経済」的な発想で何らかの「効率化」を行うことに対して徹底的に反対したい気持ちが湧いてくるのは理解していますが、ここまで書いたような「良い効率化」「等身大のイノベーション」を推進していくことは、「MMT派のビジョン」と矛盾するものではないのだ、ということをご理解いただければと思います。
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8●「アベノミクスの泰平」の時代が終わりつつある
党派的な理由から故・安倍氏のやったことは端から端まで否定したい人みたいな人からすれば、アベノミクスの「良かった点」などないと思うかもしれません。
しかし、アベノミクス期間全体において失業率はベッタリ世界最小レベルに張り付いていましたし、自殺大国と呼ばれていた日本の自殺率はかなり下がりました。
「働き方改革」だとかそういう話を一応進めることができたのも社会の安定があってこそです。
逆にその時期に「徹底的にネオリベ政策」に振り切ったアメリカや韓国などは、その分経済成長はしたものの、例えば今や日本より断然自殺者が出ている。アメリカの自殺者が最近ヤバいという話を調べていた時に気づいたのですが、韓国などはいまやアフリカのいくつかの政情不安国レベルの自殺者を出している。
どれだけ「国全体」として好調で、見た感じポリコレ的理想を掲げて他人を断罪しまくっても、その国の末端で自殺しまくる人が多いような状況が実質として続いているなら、そういうビジョンが「正義っぽい見た目」をしている分余計に「反動」運動も激しくなります。結果として政治的分断化も激しい。
日本は世界一だった昭和の経済大国の遺産を食い延ばしてある程度引きこもり、2010年代の「荒れ狂うグローバル経済の一番容赦ない時期」から自分たちの絆を守って安定した社会を取ったのだ…という風に「アベノミクス」を理解することは、客観的に見ても間違っていないと思います。
もちろん、そういう「無理やり守りの姿勢を維持した日本」が嫌で嫌でたまらない人たちもいたでしょう。
端的に言えば、「ネオリベ」の人と「ポリコレ」の人という「2つの急進派」の人達ですね。グローバルに共通な透明性の高い論理で社会全体を汲み上げたいと願う人々にとって、「アベノミクス期日本の閉じた安定」みたいなものは悪夢だ!というのはわからないでもありません。
しかし今後、「アベノミクスの泰平」が徐々に終わりを告げていく中で、「日本社会の安定感を担う人々」と、「ネオリベとポリコレという2つの急進派」との間の新しい協力関係を作っていけるかどうかが、今後の日本の命運を分けます。
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9●「ネオリベとポリコレ」と「日本」は本来敵同士ではない
その時に大事にすべき発想は、「日本社会の安定感を担う人々」と「ネオリベとポリコレ」は本来敵同士ではないということです。
「ネオリベ」にとっても、アメリカみたいにバンバン経済改革が進んでいって10年もたてば社会の末端がカオスに飲み込まれてスラム化し、治安は崩壊するし民主主義政治も危うくなるし…となったら困りますよね。
そうやって「ネオリベ改革」が頓挫するのは望むことではないはずです。
「ポリコレ」の人にとっても、結局、何らかの観念的なポリコレ正義の先鋭化だけを推し進めて社会が完全に分断され、考えられないほど「反動的」な勢力が議席を大量に持つようになったりするのは望ましくないはずです。
そもそも社会の末端がどんどんカオスに飲み込まれてスラム化し、そこではマトモな遵法精神とかが雲散霧消してしまったら一番困るのは「社会的弱者」の人達で、ある種の”ポリコレの人”は一部の学歴が高い女性と性的マイノリティ以外はどんな地獄に堕ちたってむしろ望むところかもしれませんが(笑)、それでいいと思っている人ばかりでもないでしょう。
もしあなたがネオリベの人やポリコレの人だとして、「変わろうとしない日本社会」にイライラしているとしたら、さっき書いた「等身大のイノベーション」を担うような部分の人達とのパートナーシップを結ぶことを考えてみていただければと思います。
冒頭にも書きましたが、今の日本のインテリの人は「日本社会の大部分を占める中小企業世界」のような部分の実情をほとんど理解できていないところがあります。
そういう「近くて遠い隣人」よりも「欧米社会の似た境遇のインテリ」の事の方がよっぽど解像度高く理解できる状態にある。
昨日たまたま読んだウェブ記事で、
という趣旨の話を読んでいたら、記事の最後に「有識者」の人が出てきて
…みたいなコメントをしてシメていて(笑)
いやまあ間違ってないかもしれないがなんか実情から凄い遠いような(笑)と苦笑してしまったんですが。
「リスキリング」が大事だ…とはよく言われますが、たとえばフワッとしたMBA的な講座を受ける人がやたら増えたからといってそれで何か改善するかというと難しいところはあります。
でもこの記事をここまで読んだあなたは、今必要な「等身大のイノベーション」というのがどういう感じの事なのか、ある程度イメージできたのではないでしょうか?
「ネオリベ」の人も「ポリコレ」の人も、「自民党的な惰性の政治」よりも、「自分たちの方がこの”等身大のイノベーション”と協力関係を取り結ぶことがもっとうまくできるはずだ」という方向に動いていただけると大変助かります。
の精神で競い合いましょう。
いまは、
「ローカル社会の実態を全然理解しようともせずに”なんで欧米みたいにならないの?日本って終わってるよね!」という論調
vs
「自分たちの独自性を崩壊から守るために必死に内輪で締め付けあって変化に抵抗する論調」
…という「どっちに進んでも地獄」なぶつかりあいが放置されてしまっています。
でも、例えば「ネオリベ」の人も、日本社会のそういう「実地の等身大のイノベーションの推進」といった部分と協力関係を取り結ぶことができたら、あなたがたが嫌いな「日本社会の変化に抵抗する内向きな部分」を本当の意味で克服することが可能になります。
そうすれば国際競争上必要な「GAFA型のイノベーション」に抵抗されることも急激に減っていくでしょう。
また、あなたが「ポリコレ」の人だとして、例えばフェミニストだとして、本当に「自分たち日本女性にとって良い環境」を作っていきたいなら、幻想の中の欧米を持ってきて「日本てダメねえ」とか言ってるだけでは永久に実現しません。
例えば先日は「育休中にキャリアアップする人を補助する制度」みたいな話を鬼の首を取ったようにボコボコに叩いたりしてましたけど、欧米におけるキャリア女性は日本のように長い育休なんてなくてキャリアを中断しないために必死になってたりすることは結構普通なんですよね。
育休中にキャリアアップをしようとするのは欧米の高キャリア女性の間では普通というかそもそも日本のように整備された育休なんかない国も多い。その代償の結果として意思決定層の男女比がバランスしていたりする。
単に「欧米的理想」を盲目的に押し込むだけだったらそれと同じことを日本女性もやってくださいという話になるのは当然なんですよね。
でもそういうのを望んでいるのではなくて、それでも普通にキャリアを中断されずに自分らしく活躍したい、徐々に意思決定層のジェンダーバランスも改善していきたい…というテーラーメイドの自分たちにあった環境整備していきたいなら、ジェンダーギャップ指数みたいな何もかも丸めた数字で殴りまくってるだけじゃダメで、「日本の環境」に合わせたお互いにとって無理のない特注の設計を作っていく必要がある。
その時にも、「等身大のイノベーション」の動きとフェミニストが連携できればできることは断然広がってくるわけです。
ちょっとアオリ気味のタイトルの上記記事↑で私のクライアントの中小企業での女性活躍の取り組みの話を書きましたが、ちゃんと「日本社会側の実情」も理解した上でお互いにとって良い算段を具体的に積んでいけば、テーラーメイドに「日本女性に合った快適な制度」を作っていくことは可能です。
でもそこで「双方向的」な対話を無視して、幻想の中の欧米を持ってきて「日本て嫌ねえ」と言いまくるだけでそれ以上何もしないなら、じゃ英米などでよくある高キャリア女性のケースのように出産後ゼロ日で職場復帰してキャリアを切らないような努力もやってくださいという当然の結果になる。
他にもたとえば「医学部入試の差別」を糾弾する時に、単にバーカバーカって言うだけじゃなくてそれによって支えられていた日本社会の安心安全な環境の恩恵も理解して、同時に「医療制度改革」まで視野に入れる…ような動きが安定的に動き出せば、「ポリコレ」の人達はあなたがたが一番キライな「自民党的な何か」に対して本当の意味での「勝利」を掴むことができるでしょう。
その課題を乗り越えることができれば、リベラル政党による再度の政権交代だって見えてくるかもしれない。
この記事と対になったもう一つの記事↓で書きましたが、今の人類社会では、ウクライナの戦争やイスラム原理主義の対等や米中冷戦や・・・と次々と不安定化していく要因が襲ってくる結果として、過去20年の「欧米的な理屈を問答無用に押し込めばよかった時代」が終わりつつあります。
その「欧米の外側」にあるリアリティに敬意を払って、それでも欧米的理想を失わずに内側に取り込み、その「理想」をブラッシュアップしていけるかが大事な時代になりつつある。
その時に、日本社会のインテリの人達は、今まで盲目的に欧米的価値観を振り回して断罪してきた「同じ国の中の暗黒大陸」扱いだった世界にある「良識」と、いかに手を結ぶことができるかがこれから大事になってきます。
今後「アベノミクスの泰平」が徐々に終わり、例えば4%のインフレ、例えば少しずつ上がる金利…だけでも、それが日本社会にもたらすインパクトは想像以上に大きいはずです。
その変化の中で自然に起動してくる「等身大のイノベーション」の部分を邪魔せず、資本主義の暴走がその社会の基本的な絆を引きちぎってしまって後々強烈な政治的反動に悩まされたりしないように、水と油を溶け合わせるように「変化」を取り込んでいく動きを皆でエンパワーしていきましょう。
この「等身大のイノベーションとの協力関係」が板についてくれば、今まで日本社会に憤懣やるかたなかった「ネオリベ」の人も「ポリコレ」の人も、自分たちの理想をパッと現場深くのリアリティまで勘案した上でキャッチボールしながら実現していってくれる「逆側にいる頼りになる人達」の可能性を信じられるようになるはずです。
そしたらSNSで10年前からずっと同じ罵り合いしてるより「こっちの方がいいじゃん」というように感じるネオリベ・ポリコレの人も多いと思いますよ。
先程述べたように、「人工的な理屈を問答無用で押し込むことが勝利のパターン」だった過去20年のルールは、ありとあらゆる「逆側の党派との対決」が深刻になってくる結果として反転しはじめます。
その次の「新時代のトップランナー」になるのが我々日本人です。
「尊王攘夷運動が明治開国政府を作った」
欧米由来の人工的な理屈と、それがはじき出してしまう全人類的なレベルでの「本当のリアリティ」と、両方を否定せず”対等に”敬意を払って扱って、解決を目指していくこと。
その2つを現地現物につなぎ、党派的空論の罵り合いをすべて「実際の細部の工夫」に置き換えていく揺籃になれれば、日本の次の黄金繁栄期を引き寄せられるでしょう。
なぜなら、そういう存在なしには第三次世界大戦すら避けられない情勢になっていくからです。
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この記事に興味を持ったあなたは、ぜひ以下の本を手にとってみていただければと思います。
日本社会の「現場」と「理論」を行き来しつつ、いったいどうすれば活路が見いだせるのか紐解いた本になっています。
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長い記事をここまで読んでいただいてありがとうございました。
ここからは、ここまでの話の中に埋め込もうかと思っていたけど混乱するから書けなかった「各論」的な話をします。
というのは、さっき「給料を上げるにはある程度企業規模を大きくすることが最適解であることは多い」と書きましたが、それが当てはまらない例も沢山あるからです。
だから結果として、「会社が小さいと損をする制度」をゴリ押しすることで、「無理やり統合させる」というような「北風と太陽」の「北風」的な政策には私は反対です。
むしろ、「今は会社組織になっている」ものを、バラバラにして「個人事業」に解体することで、無理が減って滞りなく機能する例も、今の日本には多いと考えています。
だからこそ、「ラストワンマイルの文化的配慮」なしにゴリ押しに統合させるような政策には反対しつつ、醸造食品を作る時のように「等身大のイノベーション」が安定的に作られていく環境整備をすることを考えるべきだ・・・というこの記事のここまでの話に繋がってくるのですが。
ここ以後は、その「むしろ会社規模を小さくする、あるいは個人事業にする」場合が良いケースとはどういう例か、どうすればそれが進んでいくのか?というような話をもう少し突っ込んでやることにします。
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また、この連載の趣旨に興味を持たれた方は、コロナ以前に書いた本ではありますが、単なる極論同士の罵り合いに陥らず、「みんなで豊かになる」という大目標に向かって適切な社会運営・経済運営を行っていくにはどういうことを考える必要があるのか?という視点から書いた、「みんなで豊かになる社会はどうすれば実現するのか?」をお読みいただければと思います(Kindleアンリミテッド登録者は無料で読めます)。「経営コンサルタント」的な視点と、「思想家」的な大きな捉え返しを往復することで、無内容な「日本ダメ」VS「日本スゴイ」論的な罵り合いを超えるあたらしい視点を提示する本となっています。
また、上記著書に加えて「幻の新刊」も公開されました。こっちは結構「ハウツー」的にリアルな話が多い構成になっています。まずは概要的説明のページだけでも読んでいってください。
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