「20世紀型反権力の終わり」としてのG7広島サミット(5月記事まとめ)
広島の平和記念公園の原爆死没者慰霊碑(トップ画像はwikipediaからお借りしました)に、
…と刻まれている事は有名で、原爆を落としたのはアメリカなのに、なぜ「繰り返しませぬ」という言葉になっているのか?と怒っている右翼の人を時々見かけます。いわゆる「自虐史観」だというわけですね。
ただ一方で、「本当に過ちを繰り返さない」ためには、単に核保有国が全部悪いということで否定し続けていればいいというわけでもないのは明らかです。
実際に人類は核兵器を持っていて、例えば西側諸国だけ核廃絶してもロシアや北朝鮮が持っていたら余計に危険にさらされるわけで、ただ「汚らわしい権力者ども」を一緒くたに非難していれば核兵器が減るわけではない。
今回のサミットで岸田首相主導でG7首脳を原爆資料館に初めて連れて行った行為と、あくまで「核保有国を非難する」という被爆者団体および一部左翼の人の直情的な論理とのギャップは、
「過ちを繰り返さない」という言葉自体が持つ意志が、「20世紀型の既存の左翼の論理を(もちろん既存の右翼のものも両方とも)超える」ところに人類社会を連れていきつつあることを表している
…でしょう。
岸田首相に対して「紋切り型の20世紀的によくある批判」をぶつけた元朝日新聞記者氏が「逃げるのか!」とタンカを切ったところ、岸田首相が引き返してきて会見を再開し、漸進的な核兵器コントロールの必要性を力説したという話がありました。
なんかこういう「実際問題を扱ってる当局側が同意できるはずもないレベルの理想主義」をわざとらしくぶつけて、「どうだ!俺は正義だけどこの権力者どもは悪だぞ!」みたいな演技をするのって、今後本当に「マジの戦争抑止」が必要な時代には説得力を失っていくのが当然の流れではあると思います。
自由主義社会としてはそういう主張をする人たちの発言を封じることは決してしてはいけませんが、そうでなくてもこういう”時代のリアルな要請から逃げ続けた空論”は、だんだん飽きられて自然と注目度が下がっていくでしょう。
もちろん、そういう理想主義が全くゼロになるのも望ましくはなくて、そういう直情的な運動が皆無になってしまうと、”リアリスト”の判断で「まあ核兵器だって必要な時は使っちゃってもいいよね」という風潮になりかねない問題はある。
だからこういう「最後まで非妥協的に権力を批判する役割」の人だって必要ではあります。
重要なのは、「社会の中にそういう”純粋すぎる理想”を言う人は必要ですよね」という話と、「国際社会の核兵器コントロールという現実の話」が変に混線して余計に危険なような事にならないようにすることです。
要するに、20世紀からずっと「リベラルの主流」だった人たちにあと三歩ぐらい社会の隅っこに引いてもらって、逆にもっと「現実的な責任の取れるリベラル」に主流の場を譲ってもらうことが今必要なんですね。
そういう意味で、岸田首相が今までより一歩踏み込んで、G7首脳を原爆資料館に連れて行ったことの意味は大きい。
そして、岸田首相は単に会見で反論しただけじゃなくて、自分のTwitterでかなり長大な連ツイで自分の立場の説明をしていて、以下の「理想を言う責任と現実を差配する責任の両方が必要なのだ」という部分とか、凄い良かったです。
被爆者団体は被爆者団体としての気持ちと立場があるだろうから、それをあくまで主張していく事は大事なことでしょう。
一方で、実際の人類社会は少なくとも現状において核抑止力の理論によって平和が守られており、その平和の上にその被爆者の人の生活も成り立っている以上、日本国の首相は彼らに明確に反論する責任があるんですよ。
ここをグダらせないようにしないと、現実問題に対処しつつ一歩ずつ核の危険を減らしていく方向にも行けないわけで、そこを明確に言葉で主張した岸田首相はアッパレだったと思っています。
これは、「左翼の”理想主義”に右翼の”現実主義”で反論した」という20世紀的な構図ではないところが今までと全然違うところなんですよ。
むしろ「過ちは繰り返しませぬから」的な理想主義を突き詰めると、岸田首相のような道に踏み込まざるを得ないという「本当の理想主義」によって「20世紀的な無責任な夢想主義」を超える方向性が拓かれたところに全く新しい可能性がある。
こういう風に日本の首相が、「ちゃんと説明する」というのは今までなかった事で、ある意味でこのG7が人類社会の歴史におけるターニングポイントになりつつある事を示していると言えるでしょう。
今回記事では、このG7広島サミット関連での人類社会の転換によって、いかに今後20世紀的な「権力VS反権力」みたいな構造自体が無効化していくのか、そして今後の時代にあるべき「理想主義」とはどういうものか?について考える記事です。
(いつものように体裁として有料記事になっていますが、「有料部分」は月三回の会員向けコンテンツ的な位置づけでほぼ別記事になっており、無料部分だけで成立するように書いてあるので、とりあえず無料部分だけでも読んでいってくれたらと思います。また、この記事は、私の5月に発表したウェブ記事群のまとめにもなっています)
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1●『日本国憲法前文』も、岸田政権的「積極的平和主義」を描いている
さっき「過ちは繰り返しませぬから」ていうメッセージを本当に追求すると、「20世紀的な反権力の自己目的化」では足りなくなって、結果として岸田政権的な方向に突き抜けてしまうのだ・・・という話をしました。
これはいわゆる「日本国憲法前文」に対しても同じ事が言えるんですよね。
右翼の人は日本国憲法前文がとにかく嫌いな人(”連合国が敗戦国に書かせた反省文だ”…みたいな)が多いですが、私はなんか今の状況における岸田政権のような立場そのものを表しているようで結構好きです。
日本国憲法前文(衆議院ウェブサイト)
特に、
…というような部分が、対中国・ロシア包囲網的な世界における「責任」のあり方として、「従来の20世紀的な反権力」の立ち位置ではない岸田政権的な理想をむしろ指し示しているように読める流れを創り出しつつある。
要するに、いわゆる欧米的な理想を完全に否定するような中国・ロシア的な挑戦が問題になっている時に、単に「自国内だけで反権力ごっこ」をやっているだけではダメなのだ・・・っていう事を言っている。
「憲法ま・も・れ!」という例のシュプレヒコールが、あらゆる「左派的感性の絶対化」に対してむしろ制限を加えてくるような構造になりつつある。
思う存分「アベ死ね」とか言ってもお咎めない環境・・・を維持するためには、中国やロシア的な政体の勢力の伸長に対して何らかのアクションを起こさないわけにはいかなくなってきている。(単に、「私はちゃんと”批判声明文”をネットで発表したからちゃんとアクションしてるぞ!」みたいなレベルの話では全然足りていないのは明らかですからね)
そういうのは「全部アメリカの陰謀」だ…という話にしても、そりゃウクライナとか台湾とかそういった「具体的な話」について全て「アメリカの陰謀」だと突っぱねることは可能に見えるかもしれない。(あまりにも非現実的だと思いますが)
しかしもっと一般的な話として、中露やそのフォロワー国のように、実際に「言論の自由」なんかほとんどないし、国家に反対した人間が次々と死んで行くような政体が「実際に人類社会のかなりの部分を占めつつある」時に、それに対して何もしなくていいのか?というレベルの要求を日本国憲法前文は突きつけてきている。
今回、アメリカの雑誌タイムの表紙の「顔」に岸田首相が選ばれた時に、その見出しを日本政府が抗議してウェブ版に限り変更させた…という事件があったんですよ。
元の見出しが、
…だったんですが、これが抗議によって
…に変わったんですね。
で、国内ではメディアに権力者が圧力をかける日本政府のファシスト的傾向…みたいな話で批判されてたんだけど、いやいや、アメリカが単体で戦争抑止できてるんなら日本がこんなことしてないからね!っていう話がもともとあるわけですよ。
”名門”のプライドが高い米国の代表的メディアが外国政府からの”単なるファシスト的な圧力”に屈して記事を変えたりする必要性もないわけで、結果として変えられたのはある程度モットモな指摘だと納得された構造があると考えていいと思います。
そもそも、これは安倍政権時代からですが、アメリカだけでなくインドやオーストラリアも巻き込んで対中国包囲網的なものを作ってきた事は、さんざん国内では「そんなに戦争がしたいのか」とか物凄く的はずれな批判をされてましたけど、本質的な見方をすれば、米国だけで世界の平和が守りきれなくなって、ちょっとした事で紛争が起きてもおかしくない状況に対する必死の対応だったわけですよね。
結果として、ドイツのロシア融和策はプーチンの暴走を招いて実際に「戦争」に繋がったが、徹底して抑止力の均衡を目指してきた日米vs中国の間はまだ火を吹いていない。
「ドイツのメルケルは戦争を招いたが、安倍は戦争を抑止した」ってたまに言われてるのを見ますが、これは結果としてはそれほど間違ったことを言ってないと思います。
もちろん、外交で…とか、民間の友好関係が大事とか、そういうのは当然あるわけですが、プーチンが「キエフなど3日で落とせる」と誤解してしまったような状況を避けておくことだけは、どっちがわの国民にとっても物凄く大事な事として揺らがせてはいけない大問題なんですね。
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2●特定の誰かを『悪』扱いしても問題は解決しない時代
理想を諦めずに現実に対処していく時には、「誰かを”悪”として断罪して終わり」というタイプの20世紀型言論を超えていかないといけないんですね。
米中冷戦時代の戦争回避に対しても、「誰かの悪事」と考えずに対処していくことが必要なんですよ。
歴史上いわゆる「覇権」国が相対的に衰退してきて別の国の勢力が大きくなってきた時には、何らかの「戦争」が起きるのが人類史のお約束みたいなところがあるわけですよね。
だから2030年前後には米中のGDP総額の順位が入れ替わるかも?というような歴史的イベントが近づいている以上、米中の間のどこかで火種が爆発してもオカシクない状況になるのは、アメリカのせいでもないし日本の自民党が軍国主義だからでもないし、もっと言えばこれは中国人のせいですらない。
ここで、
「自民党やアメリカをワルモノにする」のが旧来の左翼の論理
で、
「中国人とロシア人をワルモノにする」のが旧来の右翼の論理
で、そうじゃなくて、
「そこが不安定化するのは誰のせいでもなく当然だから、軍事的均衡を保つために何かしないといけないですよね」
…というある意味当たり前のことに真剣になるのが「責任ある理想主義」の道なんですよね。
今、自民党の最右翼に対して、リベラル派が提示していかないといけないのはこの部分の道で、もっとバランスの取れた現実策をエンパワーしていくことであるはず。
「米中冷戦の中で、ちょっとした事で軍事的均衡が崩れて火を吹いてしまわないようにする」
ここの部分↑はガッチリと「当然の前提」として持った上で、その上でであれば、
・中国人自体を敵視して、余計に火種を増やそうとするのは良くない。
・国同士の対立関係は別として、民族同士の民間交流を絶やしてはいけない
・軍事費増加はやむを得ないとしても、それが単に米国兵器会社の食い物にされるようにならず、ちゃんと抑止力の増大に繋がるようにするべき
…こういう話でちゃんと最右翼層の暴走を抑止するための言論を作っていく事が可能になる。
今はその「軍事的均衡の必要性」ごと否定して、そもそも戦争の危険性はいつでも「自民党政府」が自分で勝手にやりたいから作り出している幻想であるかのような荒唐無稽な世界観に引きこもっているので、上記のような「現実的な細部」に参加できる左派の人間が全然いない。
米中冷戦の中でどう戦争抑止するのか?みたいな話に全然参加する気がない(”話し合いで解決すべき”ぐらいのフワッとした話しかしない)ので、どんどん話が空理空論になって相手にされなくなっていってるんですよね。
そういう「国家の基礎的案件」に関してファンタジー的な勢力と結託しすぎているので、国の運営における日常的な細部の問題群(入管法関連とかLGBT関連とか同性婚とか夫婦別姓とか…)が、「かなり右寄り」な決断が行われ続けていくことになる。
それが嫌なら、そもそも
「人類の歴史上巨大戦争が起きて当然、起きなかった事がレアケース」というぐらいの「覇権国家交代のタイミング」
…において、
日本としてどういう役割を担って戦争抑止をするのか?
…という問題に対して、
「日本政府やアメリカをワルモノにする」のでもなく、「中露をワルモノにする」のでもない解決策
…を真剣に考える責任がある。
2030年前後には米国のGDPを中国が抜くとしても、日本+米国+いくつかの民主主義国群(韓国や台湾含む)であれば、伸長する中国のGDPが急激な少子化で頭打ちになる結果として、「中国的政体の方が圧倒的に力が上になり、不可避な結果として戦争が起きる」事態を将来に渡って避けることが可能になる。
こういう局面において、世界第三位の経済を持つ日本が「どちらにつく」のかは、人類の歴史を変えるぐらいの決定的な意味を持つ。
「日本国憲法前文の精神」から言えばそこに参加しないという事はありえないわけですね。
そして、「これに間違いなく参加」した上でなら、一方でもっと中立的な視点から中国人との本能的な憎悪関係がエスカレートしないようにする・・・みたいな事はいくらでもやれるというかもっとやっていくべきではあるんですね。
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3●より根本的なレベルでの、人類社会の分断における日本の役割
ロシアによるウクライナ侵攻後、やたら「ロシアの肩を持つ意見」というのが目立つ状況になってますよね。
いわゆる”左翼”だけじゃなくてある種の「反米右派」みたいな層(これはイデオロギーが現実に優先しているという意味で一種の左翼だと私は思っているんですが)で、そういう意見は強くある。
世界のあらゆる問題は「アメリカの帝国主義」が元凶として起きていて、ソレ以外の存在は常に「無辜の被害者」である…という世界観な人たちという感じでしょうか。
「こういう発想」の源流はどこにあるかというと、だいたいベトナム戦争ぐらいの時期から続いている一つの流れがあるわけですよね。
第二次世界大戦後、世界のGDPの大部分がアメリカ!だった時代、アメリカの希望に人類の大半が恋していた時代が終わり、「なにかアメリカだってオカシイところあるよね」という形で必死にそれに「異議申し立て」をする流れが立ち上がってきた歴史がある。
「当時のアメリカ政府」のパワーっていうのは、今の人類社会にはどこにもないレベルで圧倒的な存在で、ある意味で変に強制的でないぶん今の中国やロシアの強権政体よりももっと圧倒的な「パワー」があったわけなので、そのアメリカ政府がベトナムとかで酷いことをしている・・・となった時の「ギャップ」は物凄いものがあったわけです。
今の”ポリコレ用語”で言えば「権力勾配」がメチャクチャ強烈にあったので、あくまで非妥協的に「純粋な反権力」を目指す動きが生まれた事には必然的な合理性があった。
魂を国家に管理させるなよbyジミヘン・・・みたいな感じですね。
一方で、現実の人類社会は、曲がりなりにもアメリカの存在によってチェックアンドバランスが保たれて、一応人権だとかその他が人類社会全体に押し広げられているという構造だってあることを、そういう「反権力が自己目的化」した人たちは忘れているという側面も明らかにある。
例えば「米軍の不品行や、過剰な民への負担に対してNOと言っていく」ということは、アメリカの存在によって保たれている国際秩序の上で普段安穏と生きられているという側面に対して何らかの現実的責任を取っていくことと両輪でやっていく事によってのみ可能になる。
ロシアの暴走によって軍事的に国境線を変えてもいい…みたいな情勢になることには徹底してNOと言っていかないと、世界戦争になりかねないんだからちゃんとNOは言っていかないといけない。
つまり常に「物事を両側から同時に見る」ことが今の時代には必須で、「アメリカ的秩序」の問題を指摘しつつ、かつ同時にその「アメリカが果たしている秩序形成機能によって自分たちは戦争せずにいられているのだ」という部分の理解もちゃんと持ち続けていないと、複雑な状況に対して現実的な解決策を導くことができない時代になっているんですね。
こういう形で、「すべての問題を自分のエゴから巻き起こしている元凶としての”巨悪”がいる」という小学生レベルの世界観を超えていかないと、現実と噛み合った意味のある提言ができない時代にどんどんなってきているわけです。
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4●誰かを「巨悪」扱いする議論が無効になる時代の理想主義とは?
「巨悪」世界観が機能不全化している時代…という話をもっと掘り下げていくと、結局第二次世界大戦の「戦争の反省の仕方」みたいな今の秩序の根底を、「ワンパターンな右と左の”歴史認識戦争”」から解放していく事が必要になってくる。
この問題をさらにもっと本質的に掘り下げていけば、そもそもこういう「欧米的秩序」が常にその辺境において、あまりに「理想主義を押し込むだけで辺境の細部の現実をちゃんと扱えてない」ミスマッチが放置されているので、ナチスや大日本帝国から、昨今の中国やロシアまで、
「欧米の辺境でそういう強権的政体が生まれて復讐してくるという問題」はいつでもずっと人類社会の定番問題としてここまで起きてきた
…のだから、それ自体を問題として対象化して解決方法を考えないといけないというのが今の人類社会の情勢が伝えてきている意味なんですよね。
ナチスの問題をドイツ人が悪かったという視点で懺悔ごっこさせていても解決できないし、大日本帝国の不品行に対しても日本人のせいにしていても何も解決できない。
そういう「自己満足の懺悔ごっこのレベル」を超えて、
「欧米の辺境」においてそういう政体が生まれてしまうのはなぜなのか?どうすればいいのか?という根本的な問い
…に真剣に向き合う必要が出てきてるんですよ。
自分とは「逆側」の人間をただ「ナチスめ!」と否定するだけでいいはずがない。プーチンだってウクライナをナチスだナチスだって言ってるわけだしね。
「ナチス」を自分とは関係ない「悪」として切断処理する発想自体の限界がここにはあるんですよ。
「辺境でナチスが生まれる原因」は、「辺境の現実を知らずに思う存分断罪しまくって現地社会の安定性を破壊する欧米社会の側」にもある…という理解を徐々に導入しつつ、その上で「本当の解決」を目指していかないといけない。
こういうところに、今後の日本が持つ可能性はあるんですね。
「欧米文明の独善性にのしかかられている側の反感」も自分ごととして理解できるし、一方で、「そうはいっても欧米的な社会システムによって保たれている平穏や良識の良さを理解して」もいる。
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5●”ヤンキー(不良さん)の気持ちがわかる優等生”としての日本
私は本の中でよく「日本はヤンキーの気持ちがわかる優等生」という言葉を使いますが…
まず日本は明確に、「欧米が司る現行の国際秩序」の側に立っている事を示さないといけない。
日本人は「日本のGDPのサイズ」を過小評価しがちで、もし日本が明確に「中露」についたり、「中立」を装ったりしたら、今ギリギリで保たれている国際秩序バランスが壊れて物凄く不安定な時代に突入してしまうからです。
だから明確にG7と共同歩調を取ることを明確にすることが大事。
単なるサイズだけの問題じゃなくて、日本がG7サイドが離脱すると、本当に「欧米人vsその他」みたいな印象が強烈な分断を産んでしまうからという側面もあるんですよね。
一方で、「欧米諸国が自分たちの価値観でそれ以外を断罪しまくる風潮」に対して、どれだけ中露や、いわゆるグローバルサウスの人たちが反感をつのらせているか・・・という部分に対して、「自分ごと」として理解できる感性を持ち続けることも大事。
…という感じで、
「先生(アメリカおよび”欧米”)」の高圧姿勢と、「ヤンキー(中露やグローバルサウスの反欧米センチメント)」との間と繋ぐような役割
…を担うこと。
「ヤンキーと仲良くなれるタイプの優等生」の道とはそういう方向性です。
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6●親が元気なうちは「反抗期」も必要だが、親が死にかけてるのに延々ずっと反抗してるのもみっともないという身も蓋もない話
要するに、20世紀に流行した「とにかく反権力でありさえすればいい」というムーブメントは、少なくとも西側諸国内においては「アメリカ的秩序が全く疑いなく成立している」事が前提だったわけですよね。
アメリカの相対的衰退とともに、その「前提」が崩れてきて、「反権力」にも新しいモードが必要とされる時代になってきた。
親が元気で強権的で押し付けがましい存在だった時には、ただ「うっせーぞこのジジイ!」とか「反抗する」こと自体に意味があったけど、親がもう死にかけて病床でゲホゲホ言ってるのに(まだアメリカはそこまでなってはないですが)、「ただ反抗する」だけでいいのか?という変化が起きてきている。
今後ですが、そういう「20世紀型反権力の終わり」は世界中でどんどん明らかになっていくでしょう。
ある意味で、20世紀の冷戦時代の共産圏が、「資本主義社会がただ過剰な格差容認になって社会崩壊しないようにする刺激を与えてくれていた」みたいな構造と似ていて、中国のような政体の存在が、「民主主義を乱用し、その社会の問題解決に参加せずただバーカバーカって言うだけの勢力は、むしろ一番民主主義を危うくしている勢力だよね」という風潮を今後は作り出してくれるようになるということなのかもしれない。
今後我々は、そういう「20世紀的反権力」を「抑圧する」ことは決してしてはいけません。むしろ泳がせることが大事。
泳がせることで、彼らの「カッコいい外見の裏に隠れた無責任さ」がどんどん白日の元にさらされていきますから、そうすることで「驕る平家は久しからず」的転換が起きて、彼らが自業自得的に説得力を失っていってもらう運命のメカニズムをどんどん作動させていくことが必要です。
そして、「抑圧」はしないが、「批判」はどんどんしていくべき。
そして、さっきも書いたこういう転換↓を起こしていきましょうね。
そういう転換をいかに起こしていくか?という話も、以下の本で詳しく書いているので、ぜひ手にとってみていただければと思います。この記事で書いてきたような昨今の混乱も、「予言」したかのようにちゃんと書いてあると好評をいただいています。
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7●「20世紀型反権力の終わり」を目指す色々なウェブ発信たち
で、ここ以後は今月のウェブ発信集になっていくんですが、ここまで書いてきたような「時代の変化」について、色んな具体的な問題を扱いながら多面的に書いてきたのが今月という感じでしたね。
ウェブ記事以外では、このツイートとかが結構読まれたんですが…(クリックすると連続ツイートが読めます)
この山崎氏という人のことを私は良く知りませんし、普段あまりこういう「左派の陰謀論」をいちいちファクトチェックしにいったりしませんが、ちょっとこれはあまりに酷いと思ったんで指摘させてもらいました。
なんでこういう「とにかく自民党政府が悪辣に違いない」みたいな話をする左派の陰謀論が良くないかというと、結局「具体的にどうしたらいいのか」の議論が吹き飛んでしまうからなんですよね。
コロナの時も、日本の何十倍も死んでる欧米の事例を持ってきて「日本は科学を大事にしない土人国家だ」みたいなこと言ってる人沢山いましたけど、いやいや、何いってんの?という話で。
これは「批判するな」という話ではないし、ましてや「日本の現行のやり方が完璧で最高だ」という事を全然意味しないわけですが、
・現行の日本の制度のどこがどう間違っていてどうすればいいのか?
…を冷静に把握しないと改善もできないのに、何でもかんでもこの「反権力を叫ぶためのネタ」としてしか見ない人たちの大騒ぎが議論を現実からどんどん遊離させていってしまうんですよね。
結果として、「そりゃ冷静に細かい議論ができる環境をマスコミが実現できているなら、そういう微調整ができたら理想かもね」レベルの議論をうまく取り入れられなくて、「まあ70点取れる」方向性をあまり微調整できずにゴリ押しするしかなくなって、また色々な不満がたまることになってしまう。
こうやって全てを「権力vs反権力」でしか見れないから、結果としてあらゆる政治的課題が停滞するし、ある程度「反左翼」「保守で強権」な雰囲気で現実をグリップする必要も出てきてしまうんですよね。
例えばこういう問題↓
…が起きた時に、「これは再エネ派が旧電力を貶める陰謀なのか、それとも旧電力が再エネ派を貶める陰謀なのか?」みたいな二択でしか見れなくなって議論が混乱する。
この問題について冷静に考えるなら、「出力制御でもう少し火力より太陽光を優先できるようにする」事自体は非常にいいことですが、それが単に「困った時のバックアップ火力を維持している旧電力」にその分のカネを一切払わない構造が放置されたままだと問題だ…という構造なんですね。
だから、後で紹介する今月アップした電力関連記事で書いた「容量市場」の仕組みを通じて「スタンバイしてくれてる火力にスタンバイ代は払います」という構造をちゃんと作れるなら、この記事のような施策には誰にとっても意味がある…という理解をすべき問題です。
でも、Twitter見てると結構インテリっぽい人も「かなり党派的」に見てこの問題を混乱させる方向で議論している人が多いし、ましてや「なんでも権力vs反権力」でしか見れない人たちが余計に議論を混乱させているのを見かけました。
「そういうの」を乗り越えていき、常に「党派」でなく「メタ正義」的な最善を目指す議論をできる環境に持っていくのが今必要なことなんですね。
そして、そういう「調和の道」を、人類社会全体が必要としている流れが今後必ずやってくるので、堂々と日本は日本の道を進むことが大事です。
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今月出した記事としては、まず上記でも書いた「電力関連三連続記事」がありました。
これは、ネットで結構専門家寄りの人が好意的に読んでくれた感じだったのがかなり嬉しかったですね。
それだけじゃなくて、記事はアップする前に今回取材した電力業界の人々に色々と回覧したのですが、六ケ所村再処理施設のお偉いさんがわざわざ電話してきてくれて、手づから一時間半ほど「ここの表現は誤解されないか?」「こういう趣旨ならこのエピソードを使うと説得力が出るかも」みたいなことを協力してくれたりしました。
取材をアレンジしてくれた電事連(電力会社の広報団体)にも、別にそこの協力記事とも書いていないのに問い合わせが結構あったりしたそうで、
「ちゃんと事情を読み解いてくれる党派的でない記事」に、業界の人(電力会社の人だけでなく関連する専門家の人たち)全体が「飢えていた」
…みたいなところがあった気がします。
今回の取材は、一応交通費ぐらいは出してもらいましたけど、別にお金もらってるとかではないんで、中立的に調べたいだけ調べて、自分なりに「日本の電力の今はこうなっててこうあるべき」みたいな記事を書いて、それが専門家の集団にも評価されたというのは非常に嬉しいことでしたね。
三連続記事は結構長いですが、結構インテリな人でも「今何が問題になっているのか」をよく理解せずにテキトーに「誰が悪い」ってなんとなく思ってしまってることが多いと思うので、ぜひ読んでみていただければと。
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その他、マリオの映画についてのこの記事も、まあまあ読まれました。
連ツイ要約版はこちらです。
上記要約版とは別に、ふと読んだ「ハリウッドが金儲け主義で多様性が全然なくなってる」という批判記事に関する連ツイも、この話題に絡めて連ツイして結構読まれましたね。
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あと、ついさっきアップしたやつですが、一ヶ月前に死ぬほどバズった「明治神宮外苑再開発問題」に関して、バズった後反対派の人の大量の「意見や暴言」をSNSで受けまくって思った事・・・という記事が以下になります(笑)
大量にSNSで襲来を受けると、色々勉強になるんですよね。
もちろん、「まともな指摘」に「なるほど!」と思って勉強になるのもありますが、逆に「何言ってんすかあんた」みたいなことを延々言ってくる人がいたりすると、普段そういう話通じない人とは日常で接点がないので、「そうか、こういう人もいるのが世の中だよなあ」みたいなことを思ったりして(笑)
上記記事では、そういう「殺到した色んなコメント」を分析しながら「ハイ論破!」じゃない方向で話を持っていく方法について考察しています。
要約連ツイは以下ですね。
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上記以外では、土佐市のカフェのアレコレ・・・に関する、「ヨッピー」氏の記事を紹介する連ツイもまあまあ読まれました。
この連ツイ↑でも書いたんですが、クライアントに限界集落町おこししてる人いるんですが、ぜんぜんこんな感じじゃなくてもっと凄い自然に溶け込んでやってるんで、こういう例ばかりじゃないと思えるといいのかなとは思いました。
少し前にあった「福井県池田町7箇条」みたいな話も一緒で、「そういう要素がゼロにはならない」という部分をある程度認めていきつつ、「そうはいってもこれはダメだよね」という線を慎重に引いていくことが大事なんではないかという感じもします。
「そういう要素をゼロにする」vs「それは許さん」がガチンコでぶつかってるとエスカレートして「明らかに酷い事件」に繋がってしまっている側面があるような・・・
だから最初から「田舎なんだから都会と全く一緒というわけにはいかない」のはデフォルトとして理解した上で、「そうはいってもこれはダメでしょ」という最悪な事例は両サイドにいる人の共通の責任として潰していく事が必要なんだろうなと。
難しいですけど、ただちょっとずつ相互理解が進んでいる側面もあると思うので、もう少し本当の成功事例も出てくれば変わるのかなとも感じています。そういう粘り強い動きを応援していきたいですね。
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さて、長い記事をここまで読んでいただきありがとうございました。
ここ以後は、
上記連ツイでも紹介した、中山淳雄氏の「エンタメビジネス全史」を参照しつつ、「日本のアニメ」が「世界のアニメ」になっていくにあたっての色々な摩擦についてどう考えるべきか?について掘り下げてみたいと思っています。
実は、もう2020年には、日本アニメ市場の海外売上は半分を超えてるんですね。逆に”世界のアニメ市場”側から見ても、既に”4分の1”は日本アニメになっている(ハリウッドのアニメは40%)。
以下記事で書いたように、コミックの方もここ数年海外売上が”爆増”レベルになってるんですが、やはりコロナ禍で世界の雰囲気はかなり変わったみたいなところがありそう。
とはいえ、いまや「売上の半分は海外」だったら、「海外のお客さん」の意見が一切反映されないままであり続けるのもまあ難しいよね…みたいな事情が出てくるのも無理はない。
そこで問題になってくるのが、いわゆる「ポリコレ」的な風潮…特にフェミニズム的な発想と、日本の一部オタクコンテンツの対立みたいなものなんですが。
そのあたりの事について、数日前にあったアニメ『推しの子』関連のネットバトルみたいな事も含めつつ、より巨視的な視点で「海外客の要望」とどう付き合っていったらいいのか?という話について考えます。
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昨年7月からは、「記事の有料部分のバラ売り」はできなくなりましたが、入会いただくと既に百本近くある過去記事の有料部分がすべて読めるようになりますので、これを機会にご購読を考えていただければと思います。
ここまでの無料部分だけでも、感想などいただければと思います。私のツイッターに話しかけるか、こちらのメールフォームからどうぞ。不定期に色んな媒体に書いている私の文章の更新情報はツイッターをフォローいただければと思います。
「色んな個人と文通しながら人生について考える」サービスもやってます。あんまり数が増えても困るサービスなんで宣伝してなかったんですが、最近やっぱり今の時代を共有して生きている老若男女色んな人との「あたらしい出会い」が凄い楽しいなと思うようになったので、もうちょっと増やせればと思っています。私の文章にピンと来たあなた、友達になりましょう(笑)こちらからどうぞ。
また、先程紹介した「新刊」は、新書サイズにまとめるために非常にコンパクトな内容になっていますが、より深堀りして詳細な議論をしている「みんなで豊かになる社会はどうすれば実現するのか?」も、「倉本圭造の本の2冊め」として大変オススメです。(Kindleアンリミテッド登録者は無料で読めます)。「経営コンサルタント」的な視点と、「思想家」的な大きな捉え返しを往復することで、無内容な「日本ダメ」VS「日本スゴイ」論的な罵り合いを超えるあたらしい視点を提示する本となっています。
さらに、上記著書に加えて「幻の新刊」も公開されました。こっちは結構「ハウツー」的にリアルな話が多い構成になっています。まずは概要的説明のページだけでも読んでいってください。(マガジン購読者はこれも一冊まるごとお読みいただけます。)
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倉本圭造のひとりごとマガジン
ウェブ連載や著作になる前の段階で、私(倉本圭造)は日々の生活や仕事の中で色んなことを考えて生きているわけですが、一握りの”文通”の中で形に…
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