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尾崎が好き。その五
風 吹 く 道 の め く ら
わずか十音の句。
僕のような素人の意見では、俳句というのは十七音ですら少ないのに、自由律だといってそこから増やすのはまだわかるにせよ、どうして減らしてしまうんだろうと、とても不思議な気持ちになる。
この句に登場する言葉は、およそ三つしかないと言っていい。
風、道、めくら。
三つしかないのに、これらの言葉が互いにくっつきすぎず離れすぎず、絶妙な加減でイメージを作り上げている。
「めくら」という言葉は、いまでは差別用語として避けられるようになった。だから、あまり見慣れない、聞き慣れない言葉でもある。
そのせいもあるんだろうか。「めくら」という言葉の響きから、なにやら妖しげな雰囲気を感じる。
そして、風も、心地よいそよ風というよりは、草木をざわざわさせるような、そんな風を思い浮かべる。
もっとも、作者にとっては、もともとは何ということのない風だったのかもしれない。あるいは、風が吹いていることすらもともと意識していなかったかもしれない。
しかし、めくらとすれ違って、ふと「風」の存在に気づく。
このめくらは、風を顔に受けて、前に木があるとか、曲がり道になっているとか、そうしたことを察するのだろうか。
すれ違いざまにめくらだと判ったということは、たぶん杖かなにかをついていたんだろう。けれど、それも心許ない、か細い杖だった。そして、風の吹く道の厳しさ。
最初に読んだとき、作者は一本道でめくらとすれ違ったんだと僕は想像した。でも、本当は追い越したのかもしれないし、辻で行き交ったのかもしれない。
自分の前を杖をつく人が歩いていて、その人を追い越し、振り返って見たらめくらであった、ということだってありうる。
そうだとすればなおさら、自分にとっては何ということのなかった風がめくらに出くわすことで置き直されるという体験が、より鮮明になるかもしれない。
いずれにしても、この句の味わいは、この「置き直し」とか「捉え直し」というところにあるような気がする。
最初は、風、めくらという言葉のイメージから、妖しげな、なんとなく荒涼とした印象を受け取る。
しかし、めくらが風を顔に受ける、その感触に思いが至り、放哉がしたであろう「置き直し」を、読む人も追体験する。
風、道、めくら。
この言葉、たった十文字だけで、情景が見えてきて、妖しさを感じさせるだけでなく、それに引き続く気づきまで見せてくれる、そんな一句。