日本語で戦った米軍情報士官たち:一戸信哉の「のへメモ」20220717
2022年4月に放送した、敬和学園大学名誉教授北嶋藤郷先生のインタビューでは、北嶋先生がながらく研究されてきた、ドナルド・キーンさんの足跡についてお話をうかがいました。
ドナルド・キーンさんは、海軍で日本語の訓練を受けて、日本語情報士官となっています。2022年7月11日に、NHKが放送した「映像の世紀バタフライエフェクト:太平洋戦争 “言葉”で戦った男たち」では、ドナルド・キーンをはじめ、米海軍の日本語情報士官たちの働きについて、特集しています(再放送もありますし、もうしばらくNHKプラスでも見ることができるでしょう)。
米国からの視点が主なので、あまり視聴率は高くないような気がしますが、私個人は大変興味深かったです。戦後の日米の「架け橋」となった人々が、「戦争」で養成されていったという、皮肉だけれども興味深い状況。どんな話だったのか、少しだけ紹介してみます。
海軍が日本語教育を行ったのは、コロラド大学ボルダー校。教師は強制収容所に入っていた日系人だったそうです。ここで教育を受けた人々は、のちに「ボルダーボーイズ」と呼ばれたそうです。それだけ、米軍の諜報活動にとって重要な役割を担っていたのでしょう。
情報士官たちは、日本軍が玉砕したアッツ島に上陸し、日本軍兵士たちが身につけていた日記などを押収、作戦分析などを行います。こうした役割を果たす中で、敵である日本人は、理解不能な「狂信的な民族」ではなく、同じ人間だということがわかってきたと、ドナルド・キーンさんは書いています。
テニアン島に学校を作ったテルファー・ムック
ボルダーボーイズの1人、テルファー・ムックさんは、悲惨な戦いの末、のちに原爆投下機の出発地になった、テニアン島の戦いに従軍しています。
ムックさんの働きとして、テニアン島で生き残った日本人の子供達に、学校「テニアンスクール」を救ったという点が挙げられます。悲惨な戦いで、肉親の死に直面したであろう子どもたちに、進歩的な教育を行ったと評価されています。
テニアンスクールで学んだ子どもたちの多くは、沖縄に戻り、教員になったそうで、テニアンスクールの同窓会の様子が、紹介されています。
天皇の地方巡幸を発案したオーテスケーリ
牧師の子供として、日本での滞在経験があったオーテスケーリさんは、情報士官の中でも、最初から日本語が流暢で、知日派を自負していたようです。戦後GHQの一員として来日したあとには、高松宮を訪ね、その際に、天皇による「地方巡幸」を提案したと証言しています。その後、昭和天皇は「人間宣言」を行い、人心の安定をはかるために巡幸をしたといいます。
GHQをやめたあと、オーテスケーリさんは、同志社大学で教員をつとめられています。
日本文学の翻訳家として活躍したサイデンステッカー
進駐軍の一員として佐世保に上陸したエドワード・G・サイデンステッカー
さんは、同時代の日本の作家たちと交流し、作品を多く英訳して世界に紹介しています。欧米列強と伍して戦おうとしていた日本は、敗戦国として自信を失い、国力も弱まっていたわけですが、勤勉な日本人の姿を見て、その研究に生涯をかけたという言葉が紹介されています。
1968年に川端康成さんがノーベル文学賞を受賞していますが、これはサイデンステッカーさんの翻訳で審査されたとされています。サイデンステッカーさんは、川端さんとともに授賞式におもむいて、日本語のスピーチを英訳して、英語でのスピーチを行っています。
米軍で日本語教育を受けた情報士官たちは、日本軍と戦うための貴重な戦力となりました。日本人が自分たちと同じ「人間」であるとより深く理解しながらも、悲惨な戦いの只中に入って、非人間的な戦いに従事しなければならなかったのでしょう。その矛盾に満ちた日々のあと、日本に関心を持ち、日本に留まって、重要な働きをした人たちがいたということになります。
北嶋先生にうかがったドナルド・キーンさんのことをあらためて学ぶともに、この作品に出てきた人たちのことも、さらに調べてみたいところです。