見出し画像

コンプレックス〜自己紹介も兼ねて

やっぱり私も寂しかったのかなぁ。

ハッキリとした自覚はまったく記憶にないのですが、先日ふと、ツムギのことを見ていて、そんなことを感じました。


この話をする前に、今までnoteで、私自身のことをシッカリと語ったことはなかったので、この機会に簡単に紹介したいと思います。

1971年生まれ
二人姉妹の次女
東京で生まれ、思春期を地方で過ごし、戻ってからずっと東京在住
母を小学6年生、父を社会人4年目に癌で亡くし、30代で嫁に行くまでは姉と二人暮らし、離婚して帰って来てから去年までは一人暮らし
2021年当時9歳の娘がいる人と再婚

父母は厳しい人でした。

父は正直者の家系に育ち、嘘が嫌いで真っ直ぐな性格。知らないこどもにも注意してしまう姿は、こども心に恥ずかしかった記憶も。
母の亡き後、娘二人を男手ひとつで育てるのは難しいだろうと、私たちの母親探しをしていた模様、私が高校1年生の時に再婚。
中学生の時には運動会に来てたくさん写真を撮ってくれたり、姉と私の通う高校の弓道部で指導を行うなど、私にとって自慢の父でした。
母と正反対と言っても過言ではないタイプの人を後妻に選び、裏切られた気持ちから、反発した態度を露わにしましたが、そのまま関係が悪化してしまった姉と違い、私は上手に父に甘え、いろいろなわがままを聞いてもらいました。

母は裕福な家庭に産まれるも、幼少の頃には戦争の影響で生家を追い出され、病気がちだった母親を若くして亡くすなど、苦労を重ねて来たそうです。
それでも明るく、お洒落やお出かけが大好きで、私たち姉妹の洋服はほぼ手作り、家族でのドライブや旅行を計画したり、美術館に連れて行ってくれたり、質の高い生活を送るためには努力を惜しまない人でした。
年子(姉は早生まれ)の姉と平等に育てようとしたため、できることに差がある妹の私は怒られる頻度も高く理不尽な思いもしましたが、当時は父よりも断然母が大好きで、写真を見るといつも母にくっついているようなこどもでした。


小学校に上がる頃には買物のお手伝いは当たり前で、1年生の時の同級生に聞くと、既にきちんと敬語を使って話していたそうです。
母が入院した頃から、夕食の買物と調理は、仕事の父と部活の姉が帰るまでに済ませるようにしていましたが、父から料理本を2冊ぐらい買ってもらっただけで、特に困ったり、辛かったりした記憶はないので、恐らく、それぐらいのお手伝いはできるようになっていたのだと思います。

ありきたりの言い方で言えば、母は自分の死期を予感して、こどもたちが生きて行けるように準備していたのかもしれません。

この1年、友人に子育ての悩みを打ち明けると必ず言われることがあります。

ケイトは真面目だからね。
頑張り過ぎるんだよ。
いろんなこどもがいるんだよ。と。

子育てに限ったことではありません。
今までの人生で、どれだけそう言われて来たことか。

もっと人に対して大らかになれたら、どんなに気が楽だろうと今も思っていますが、私にはそれができない。

きっと、父から譲り受けた性質と、母から教育された価値観とが根強く、変わることなく老いていくのではないでしょうか。


周りの家庭より明らかに厳しかった教育は、結果的に私たちを助けてくれました。自立して逞しく生きていく力と術を自然と身につけてもらっていたのですから、両親にはとても感謝しています。

今、こどもを育てる側になって、同じような力と術をツムギに身につけてもらいたいと思っています。

それで私は友人たちが口を揃えて言うように、頑張り過ぎてしまっているのでしょうか。


寂しかったのかもしれない。
もっともっと自由に遊びたかったのかもしれない。
もっともっともっと母に甘えたかったのかもしれない。

潜在意識の奥底にこどもの私がいて、今のツムギや他のこどもたち、或いは、大人同士の会話ができるまで親が健在だった友人たちが羨ましくて仕方がないのかもしれません。


だからと言って、いいよー、ツムギ、何もできなくても何とかなるからねー。とは言えないのです。
やっぱり自分でできる事が多い方が人生は開けて行くと思いますから。

だからと言って、急がなくてもいいのかもしれない。ツムギがこどもでいられる限られた時間の中で、一緒に馬鹿なことやったり、思い切り甘えさせてあげたり、楽しかったなー。たくさんの時間を共に過ごしてくれたなー。と、心を満たして大人になってくれるのでしたら。

いいなと思ったら応援しよう!