寛容のパラドックスがなぜ生じるのか?=対立のパラドックス
今回は、自分の考えたオリジナル哲学概念である「対立のパラドックス」についてを、有名な「寛容のパラドックス」から紐解いて考えてみたいと思います。
寛容のパラドックスと自由のパラドックス
今回のテーマは有名な「寛容のパラドックス」と、私の考えた「対立のパラドックス」についてです。寛容のパラドックスとはカール・ポパーという哲学者が考えた哲学で「寛容な社会を無制限に与えると、不寛容な人々がどんどん増えてしまい、結局不寛容を認めない不寛容さも必要になる。」という矛盾が生じるパラドックスのことです。どういうことかというと、寛容な社会というのは無制限で無限の自由がある社会ですが、一旦自由が社会に無条件かつ上限がまったくない状態で許容されると、からなず自由を主張する強者が弱者の自由を虐げて奴隷的支配を行うような支配関係が生まれるということで、これを自由のパラドックスといい、その延長上に自由という名のものに行われる不寛容に対して不寛容にならなければいけないパラドックスが生じるという意味につながる訳です。寛容な社会を維持するには不寛容さを認めない不寛容さも必要になってくるわけで、寛容なだけの社会の維持は矛盾だらけ=パラドックスであるという主張である。
対立のパラドックスと正義のパラドックス
自分もこの哲学の延長でさらに色々考えたのですが、そもそもなぜこのような寛容のパラドックスが生じるのか?という根本を突き詰めて考えるとこういう哲学的要因が根底にあるからではないか?と思うからである。それは「そもそも人間というのはお互いに思想やイデオロギーや考え方、価値観、あらゆることで対立する生き物であり、対立をなくそうとするには相対主義の価値観(あらゆるイデオロギーを受け入れる多様性を認める思想)が必要であるが、その相対主義思想自体がそもそも一つのイデオロギーをなすもので、最終的には絶対的な価値観を信じるものから反対され結局、対立する。」という結論にならざるを得ない訳で、これが対立のパラドックスである。結局、人間はどう足掻いても「信じたいものを信じたい」というものであり、だからこそ対立が生じる訳である。だから、寛容さを無制限に認めようとするとこの「自分こそ正しい」という正義の主張が増える訳でありそれが結論として不寛容さへと発展し、お互いが対立するという構図になる訳でそれが寛容のパラドックスの話にも繋がるのだと思われます。そして、このお互いが「自分の信じるものこそ正義である」と主張することが対立を生むというのが正義のパラドックスともいえる。そして、「この対立を今度はなくそうとするとそれがまた対立を生む」という悪循環になっている訳で、それが対立のパラドックスである。だから、最終的にはこの対立のパラドックスをできるだけ軽減させて解決するには、お互いが妥協し合って各イデオロギー勢力が力のバランスを保ち拮抗するしかないという結論になる。それを対立均衡バランスとも呼べる。
以上が、寛容のパラドックスがなぜ生じるか?という観点で考えた独自の考えですが、もちろん色々な意見があると思いますのでそれは反対意見があってもいいと思います。なぜなら、あらゆる価値観は対立することこそが「対立のパラドックス」なのですから・・・