つれないつり (7) メバル
冬は釣りにいくものではない。容赦ない北風が襲ってくる。魚は水温が暖かく安定している沖の深場へと移動して、岸にはほとんどいなくなる。冬はリールをメンテナンスするなど釣り道具を整備しながら、春が来るのを待つのがよい。ただ、冬に釣れる魚がある。メバルである。どうしても釣りに行きたくなった12月のある日、私は海へと出かけた。
メバルは夜行性である。ただで寒いのに、さらに寒い時間帯に行かなくてはならなない。夜の漁港に車を止めて海へ出た。釣り人は誰もいない。
メバルは常夜灯付近を狙うのが鉄則である。プランクトンが光に集まる。それを狙って小魚が来る。それを狙ってメバルが来る。漁港にただ1つある常夜灯は、突堤の先にある。北風を遮るものは何もない。立っているだけで熱量を消耗する。これは罰ゲームだ。とはいえ、このまますぐに帰ると本当の罰ゲームになる。やるしかない。たった1gの小さなジグヘッドに小さなワームをつけて投げる。風に向かって投げると全く飛ばない。風に背を向けて投げると軽いのに思いのほか飛んでいく。
はじめてのメバルである。どれぐらいワームを沈めればいいのかがわからない。着水してから、1、2、3・・・とカウントをする。深いところにいるのか、浅いところにいるのか、そもそもいないのか。反応がないということは 、いないのだろうか。こんな寒い日は人間がコタツで縮こまっているように、魚もどこかで縮こまっている気がする。
少し遠くでボコボコと大きな泡が立った。凝視すると、下に大きな影がある。何かとてつもなく大きなものが動いている。またボコボコと大きな音を立てた。泡に向かってワームを投げた。たとえ掛かったとしてもメバル用の細い糸ならすぐに切れるだろう。でもいい。少しでも引きを味わってみたかった。しかし、そいつは食ってこない。何度、投げても食ってこない。もう強引に掛けてしまえ。影の少し沖にに投げて猛スピードでリールを巻いた。掛かった。しかし、巻くことも竿を動かすこともできない。強引に巻くと、案の定、糸はすぐに切れてしまった。
「こらー!なにするんや!」
突然、人の声が聞こえた。
「危ないやないかい!」
さっきの大きな影から声が聞こえているようだ。なんだ、これは。さっきのは人間なのか。それとも他の何かなのか。大きな影が近づいてきた。よく見ると黒いウェットスーツに身をつつんだ老人のようにみえる。もしかして、そういう形の妖怪か幽霊ということもありうる。頭がつるっとしているので海坊主かもしれない。冬の夜の海に老人がいるわけがない。物体が岸に上がって漁港の階段をゆっくりとあがってくる。ヘッドライトを照らした。
「おう、ありがとう。そのままにしといてくれ」
私はただ物体の正体を見分けようと思っただけだが、階段の段差がわからないようで、ライトがあると助かったようだ。
「ふぅー」
こっちに近づいてきた。私は全神経を集中させた。何かあったら釣竿で殴ろうと思った。ペタペタと歩いてくる。だんだんと姿がはっきりとしてきた。おそらく、これは、ウェットスーツをきた老人で間違いないと思われる。足はきちんとついている。そして、僕の近くに腰を下ろした。
「にいちゃん、タバコあるか?」
タバコを求めてきたということは人間だと思われる。
「タバコ吸わへんもんで」
「釣れたか」
「全然あきません」
「何狙ってるねん?」
「メバルです」
「今日はだいぶ寒いからの」
「あのー、何をしてたんですか?」
「ナマコ採ってたんや」
「ナマコ?」
「おう。今、中国に高うに売れるんや」
「へえー、ナマコですか」
私は勇気を出して一線を越えてみようと思った。
「昼に獲ったらあかんのですか?」
「わし、モグリでやってるねん」
「はい?」
「密漁というこっちゃ。昼間やったらバレるやろ。
最近、魚が獲れへんから仕方ないんや」
「普段は漁師なんですか?」
「そうや」
「そんな歳で夜の海とか大変ですやん」
「骨身に染みるな」
「そこまでせんでも年金とかあるでしょ?」
「漁師に年金なんかあれへん」
「ええ!そうなんですか」
老人は将来のことも案ぜず、今を楽しみ、年金を払ってこなかったからだろうか。老人の将来を無計画に放置した漁業という産業の制度的不備を憎むべきか。
老人を冬の海に追い立てるほど、日本には貧困が忍び寄ってきたのだろうか。
「もう1回行こかな。にいちゃん、ライト照らしてくれるか?」
老人は階段を下りて、夜の海へと消えていった。
「もう俺に投げるなや」
老人の声が暗闇の中に響いた。
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