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🔲 日本語の可能性への期待「桐壺の巻」2

人々の非難を受けて、桐壺の更衣は、御子が三つになる年の夏、危篤状態になってしまいました。重病になると宮中を退出しなければなりません。帝は、里下がりをしないように努力をしますが、それもむなしく退出することになったのです。

別れの挨拶も満足にはできず、桐壺の更衣が息も絶え絶えに辞世の歌として詠った歌と言葉が次のようなものでした。

「かぎりとて別るる道のかなしきに  いかまほしきは命なりけり
   かく思う給へましかば」  

古典文学大系一 31頁

この歌の肝となるのは、「いか」という言葉と助詞の「は」です。「いか」は「生きる」という意味と「行く」という意味が込められている掛詞なんです。普通、宮廷女性は「行く」を「ゆく」といっていたようですから「いく」の意味を持たせることは尋常ではなかったのでピーンとくるようなんですね。「生きたいのは命」「行きたくないのはこの私」というのです。助詞の「は」がとてもよく効いています。

さらに、「かく思ふ給へましかば」と途中で言葉を飲んでしまっているようなんです。古典文法の教室のようで恐縮ですが、「ましかば」という言葉の後には「・・・まし」という言葉が必ず来るという慣用的な言葉なんです。でも、「まし」の部分がありません。言葉も喋れない危篤状態の桐壺の更衣の状況を見事に表現しているんですね。

昭和を生きてきた人間にとって、英語やフランス語やドイツ語は、あこがれの言語。日本語って曖昧で論理性が欠如して意味不明なものが多く、含みが多すぎる。何を言っているのかわからない。外国の人が学ぶのには難しくってあまりよろしくない。欠点ばかりが指摘されていました。

しかし、平成・令和の時代、かなり見直されているようですよね。日本語の曖昧性とか非論理的部分を、むしろ、多義性・多様性として評価しているようですし、アニメの影響もあって日本語を勉強する外国の方も沢山いるようです。豊かなものを包括している日本語への関心が高まっています。

スマホ時代の日本語、ずいぶん変化していますね。新しい文化に向けて日本語の多様性・多義性を生かした豊かな文化を支え生み出す日本語の未来に期待したいですね。


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