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多様な学びの場と学校教育(10)

整然と並び、文句ひとつ言わず黙って待つ


今日も私のnoteにお立ちよりいただきありがとうございます。
本年もどうぞよろしくお願いいたします。


多様な学びの場について、昨年から考えてきています。


学ぶための環境がどのように変化しても、主体的に学ぶためには、学ぶための姿勢や心構えというものが、子どもの中になければ、主体的に学ぶことはできないことをお話ししました。


その時に、「整然と並んで待つ」という、我が国特有と言ってもいい日常的に見かける光景はどこで学ぶのか、そして、多様な学びの場があれば、学校など必要はないかということを、問いかけてみました。

皆さんはどうお考えでしょうか。

「整然と並んで待つ」ことはおかしい!という方は、あまりいらっしゃらないと思います。

できれば、待ちたくはないけれど、並んで待つことは当たり前であり、そうしないのはおかしいと思う方がほとんどではないでしょうか。


「整然と並んで待つ」ことができるのは、なぜでしょうか。


これは、どこかで教えられ、そうしなければならないと学んだからできているのではないと、私は思っています。

このことは、私の周りの大人にも子どもにも聞いてみても、誰一人、これまでにそうしなければならないと学習した覚えはないというのです。


でも、スーパーのレジでも、銀行のATMでも、新しいiPhoneの発売日でも、多くの方は、黙って整列して順番を待っています。

オリンピックの開会式に、日本選手団が入場してくるとき、日の丸を先頭に、一糸乱れず行進をしている姿を見て、素晴らしいと思う方も多いと思います。

他国のマスコミの方々がそれを見て、「何とすばらしい!」「堂々としていて立派だ」と報道してくださることも多く、たくさんの国々で、日本選手団について、称賛していただけることはありがたいのですが、どこかで、私達にしたら当たり前のことをしているだけのように感じてしまいます。


また、他国の方が我が国に来て、並ばず横入りしようとして、注意を受ける動画が拡散されたりしていますが、我が国の多くの方は、そのようなことはしません。

大きな災害に見舞われ、自分自身も苦しく、食糧、水が簡単に手に入らないような時でも、黙って順番を待ち、ともすれば、弱っているお年寄りや子どものために順番を譲ってでも、お互いが助け合うことが、まるで当たり前かのように行われています。

これは、助け合うことが当たり前の文化があるからということは、前提としてありますが、他国から見れば、とても驚くべきことなのです。


このように、「整然と並び、文句ひとつ言わず黙って待つ」ということがなぜできるのでしょうか。


私も長い間、このことは、疑問でした。


でも、不登校になって、私のフリースクールに通ってきていた男の子が、この話をしたときに、ポツリと言った言葉が今でも心に残っています。

「僕は苦手だったけど、学校では朝礼でも、運動会でも、音楽鑑賞でも、いつも黙って整列していたのは、このためだったのかもしれないですね。」


この言葉には、正直、ハッとさせられました。


確かに、学校では、黙って整列して待つ、ということは、当たり前にできないといけません。

ありとあらゆる場面で、整列する、黙って待つことを求められます。

運動会や体育祭が軍隊のようで、ああいうことはやめた方がいい、というご意見があることも承知しています。


しかし、この子どもが言ったように、学校だけでなく、幼稚園や保育所でも同じように整列することを求められます。

こうして小さい頃から、自然とそうするものだと身をもって学んでいるからこそ、できることなのかもしれません。


これが、「整然と並び、文句ひとつ言わず黙って待つ」ことができるのはなぜか、という問いの答えかどうかはわかりません。

しかし、その答えの一つではあることは、十分に考えられます。


教えられずに多くの国民ができるためには、我が国の文化として浸透していることは、大前提として必要なことです。


しかし、それだけでは、これほどまでには、身に着くものではないと、私は思います。


我が国は、災害大国です。

火山の噴火や地震、台風による風雨、局地的な大雨など、毎年のように大きな災害に見舞われます。

そのたびに、たくさんの方が被害に遭うことになります。


このときに、自分のことだけを考えているような人ばかりであれば、復興は簡単ではありません。

お互いに助け合い、譲り合わなければ、生き延びていくことすらできないのが、我が国なのです。


だからこそ、「整然と並び、黙って文句ひとつ言わず待つ」ことが求められるのです。

それができないと、我が国では生きていけないのです。


実は、そのことが、学校での様々な活動の際の「黙って整列して待つ」ということが、大きく役立っていることは、十分に考えられることなのです。


ところが、今、自分さえよければいい、ということが、我が国のあちこちで見られるようになってきています。


これがどうしてか、ということと、多様な学びの場があれば学校は不要か?ということについて、次回は考えてみたいと思います。


最後までお読みいただきありがとうございました。



フリースクール・パーソナルアカデミー


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Keisuke Tani
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