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CSメール4千件の驚愕~朝起きたらアイドルが蒸発して大炎上していた話
「僕の"ゆうなちゃん"がいなくなっちゃったんです!どうすればいいでしょう!せっかく会えたのに!」
悲痛な叫びが山のように届いていた。
その数、実に4,000件以上
これは、10年前に起きた、ある火事場プロジェクトの物語の第2弾である・・・
※第1弾はこちら
モバイルサイトにウンコの絵文字が表示されて死にかけた話
渋谷の片隅の消火活動後~生みの苦しみ
モバイルサイトにウンコの絵文字が表示されて炎上した事件に片が付き、どうにかソーシャルゲームの企画を考えることに集中できるようになってきた。
実際には他の納品案件も並行して対応していたのだが、持ち前の過重労働パワーでなんとかしていた状態だった。
さて、モバイルサイトの受託制作からソーシャルゲーム開発にピボットしたはいいが、実際のところ、何をどうすればよいのかさっぱりわからない。
そもそもガラケーの時代である。
当事者の立場からしても、ガラケーでプレイする「ゲーム」というものが、何が面白いのかさっぱりわからなかった。
当時の圧倒的大ヒットであった『怪盗ロワイヤル』のプレイ画面といえばこんな感じである。
・ガラケーという限られた操作しかできない端末
・通信は最大100KBまで、という今では信じられない制限
・「FLASH Lite1.1」という、ロストテクノロジー主流に作られた演出
ちょっと挙げるだけでも、これほどの制限がある。
100KBという容量の中で、ゲームらしいインタラクティブな体験を作らなければならないのだ。
ちなみにファミコン時代の初代ドラクエ1は64KB以内に納めて開発されたらしいが、もはや芸術を通り越して狂気のように思う。
嘆いていても始まらない。まずは動くことである。
取り急ぎ、企画の作り方に関する本を何冊かまとめて読んだ。
平常時でも週一冊は読むようにしていたので、必要に応じて一気に読むのは慣れたものである。
そうはいっても、「何が面白いのかさっぱりわかりまへん状態」なのは変わらない。
ガラケーのボタンをひたすらポチポチして、いったい何が面白いというのかというのが当時の正直な心境であった。
しかし、面白くない・理解できないものを避けるというのは仕事人としての老いであり死を意味する。
面白さがわからないのであれば、面白さがわかるまでひたすら触れるしかないと腹を決めた。
今でもそうだが、面白くないものに触れるというのは極めて苦痛な時間である。
奥さんや彼女の「友達がどうした、芸能人がどうした」というオチのない話題が退屈で9割がた聞き流しているという男性諸氏も多いと聞くが(偏見)、
興味のないガラケーのソーシャルゲームをポチポチするというのは、それに勝る苦痛だった。
とはいえ、オチのない話を聞き続けていることでパートナーの趣味嗜好が理解できるようになってくるように、
ひたすらプレイし続けることでソーシャルゲームの面白さというのも、少しずつ「理解」できるようになっていった。
※ここでいう理解とは、面白さの構造化ができるようになったという意味であり、一個人として面白くなったという意味ではない
企画の光明と開発開始
さて、実際の企画である。長いので読み飛ばしてもらっても構わない。
当時のサイバーエージェントでは「専務対決」というエッジの立ったキャンペーンが行われていた。
その詳細はこちらのブログに書かれているが、ともかく2名の専務がガチンコでソーシャルゲーム事業の立ち上げを競うわけである。
自分は当時専務の日高さんのサイドにいた。
専務対決というのは、今思い返してもとんでもない経営手腕だと思う。
ゲーム性がありつつも、役員(のしかも上のほう)が真っ向勝負で経営の実績勝負をするうえ、その進捗が社長のブログで公開されるわけである。
自分のボスを勝たせたいという想いから生まれた現場の熱気は、今では考えられないほどに熱かったと思う。
我々のチームでは、その日高さんと週に2回の定例mtgがあり、その場で各自がもちよった企画を提案するという形式だった。
そこで「これちょっと詰めてみようか」という企画の種があれば、日高さんとの毎日定例が組まれ、開発着手できるかどうかを日々議論していくという形式なのだ。
当時でもそこそこの規模だったサイバーエージェントの専務が、新卒2年目の出した企画に真っ向から向き合い、事細かにフィードバックしながら議論していくというのは、なんというか…凄いことだと思う。
特に、それまで大した成果も残していない2年目ボーイの側からすると、「専務との毎日定例」が設定されるというのは現実味が薄いとすら感じられた。
しかし、夢でも幻でもなく、良い企画さえ考えられればビッグなチャンスをGETできるわけである。
「100万人以上のユーザーが見込める、ホームラン級の企画を」というお題に向き合い、とにかくひたすらに企画を考えて当て続けた。
最初のうちは企画についてはボロボロで、とにかくダメなフィードバックばかりもらっていた。
いざ企画を考えてみるまで、自分が一般消費者的な感覚とこれほど乖離しているとは思ってもいなかった。
「これ好きな人っているの?めちゃくちゃ少数派じゃない?」
そんな感じのフィードバックを日高さんから毎回もらっていた。
それなりに面白いことを考えるのは得意だと思っていただけに、最初のつまずきは面食らったものだった。
1か月半ほどダメ出しをもらい続けていると、だんだんと「100万人以上が使いそうなモチーフ」というものが見えてきた。
ちょうど2010年当時は「メイド喫茶」が一般層にも認知されたり、AKBがマスでも有名になってきたりしたタイミングだったので、「秋葉っぽいものはどうか」というところに当たりをつけた。
※企画当時のAKBは、『ポニーテールとシュシュ』がリリースするちょっと前くらい
相変わらずポチポチするゲームの面白さが実感としてわからなかったので、「自分でも面白さがわかるように、かわいい女の子がたくさん出るゲームにしよう!かわいい子がGETできれば誰だって面白い!」という想いも背景にあった。
26歳独身彼女無し男性が、良い方向にこじらせた結果だったと思う。
結果としてこれは奏功し、日高さんとの毎日定例の段階へと進むことができた。
当初はメイド育成みたいなモチーフで検討していたが、もっとターゲットが広いモチーフにしたいということで「アイドル」をモチーフにすることになった。
また、当時のアイドルをモチーフにしたゲームといえば(今でも)アイドルマスターというのがあるが、
それとの差別化をするために、「育成」ではなく、「アイドルをたくさん集める」という部分にフォーカスしたゲーム性にした。
他にも色々とあるが、ひたすら他社ゲームやアニメをインプットし続け、日高さんとの毎日定例mtgを重ねた結果、
「アイドルの原石を見つけ出して、ひたすらアイドルデビューさせる」
という方向性に決まり、開発Goがでた。2010年3月のことである。
ウンコの絵文字が出てから、3か月弱が経過していた。
新卒2年目生活も終わりを告げていた。
そしてリリースへ~想定外のヒット
開発中も色々とあったが、要点だけ書いておく。
当時の開発体制は非常に少数で、自分含めてたったの6名のチームであった。
現在ほど開発要件が大きくないというのもあるが、当たるかどうかわからないものにコストをあまりかけられないという事情もあった。
何せ、当時はまだどんなゲーム性が当たるのかわからず、各社とも手探りだった時代なのだ。
プロデューサーの自分に加えてサブプロデューサー1名、ディレクター1名、デザイナー1名、エンジニア2名という体制だったと思う。
プランナー?そんなものはない。
こんな人数なので、とにかくすべてがギリギリである。
ほぼ全員がせいぜい終電で、自分と他に1人2人はタクシー帰りか、会社に泊まっていた。
開発が1日遅れるごとに、他社から類似ゲームをリリースされてしまうかもしれないという恐怖心が突き動かしていた。
そんな中、自分はプロデューサー業務に加えてレベルデザインもクリエイティブ監修もやり、それどころかキャラクター48体の設定作りからシナリオライティングまでやっていた。
いくら開発要件が大きくないとはいえ、今思うと狂気の沙汰である。
なお、当時は「分業」などという優しい概念は存在しなかった。
とにかく、できる人がやるしかないのだ。
とにもかくにもギリギリの開発をし続けて、2010年6月30日の19時10分ごろにモバゲータウン(現Mobage)へとリリースできた。
当時は月末最終日に締めの飲み会をやっており、19時半からの会になんとか間に合ったというのを覚えている。
当時のデバッグは、みんなで一通り触って変なところがないか確認するだけという、ヤバイものだった。
テスト仕様書などというものは存在せず、とにかくギリギリまで開発して、なんとなく大丈夫そうであれば一分でも早くリリースする…というのが当然という空気だった。
ベンチャーというかなんというか、カオスである。
そのカオスが、のちにとてつもない炎上につながるわけである。
締めの飲み会が終わり、チームメンバーの大半は会社に戻った。
すでに限界まで追い込んで開発していてヘトヘトなのだが、リリースしたばかりのゲームの売上が気になって仕方ないのだ。
売上の管理画面を更新するたびに課金がされていて、「おおっ、本当にデジタルのアイテムに課金されてる!!!」と、みんなで感動したのを覚えている。
当時はまさか、形のないものに課金するなんて…という感覚がまだ強く、自分たちが作ったものに課金されるというのは実感がなかったのだ。
0時を回って7月1日になると、一気に課金が伸びた。月初1日はキャリア決済の上限がリセットされ、課金できなかったユーザーが一気に課金するようになるため売上が圧倒的に伸びるのだ。
明日はどうなっているだろう…そう思いながら帰宅した。
翌朝会社にきてみると、想像してもいなかった状況になっていた。
とにかく課金が伸びており、管理画面をリロードするたびに売上がついているのだ。
会社の中が「なんかすげえ!」という雰囲気に包まれたのを覚えている。
結局、初日だけで100万円以上の売上となった。
リリース初日の売上としては、当時としては業界トップクラスだった。
(すぐに記録は塗り替えられるのだが)
想定を超えた初速の良さもあり、売上もユーザー数もどんどん伸びていった。モバゲータウンからの大量送客も決まったりした。
当時のモバゲータウン(DeNA)側の担当であったHさんは凄かった。
想定外に増え続けるユーザーの負荷対策に四苦八苦している状況の中で、「モバゲーのメールマガジンから大量送客するってことで社内を通しました!サードパーティ(ゲームをプラットフォームに提供する事業者)としては初ですよ!」という連絡をくれた。
僕「え?負荷がマジでやばくて”連日泊まりで対応してもらってる状況”なんすけど、マジですか?」
Hさん「はい、なんで、メルマガ送信される2週間後までに頑張ってやりきってください★」
という凄い仕切りだったのが印象に残っている。
その無茶ぶりに対し、エンジニアが本当に頑張って対応してくれたおかげで、数日間に数十万人が流入するという波動砲のような負荷に耐え抜くことができた。
ここでHさんの無茶ぶりがなければ、大きな成功はなかったと思う。
そうしてDAU(1日のアクティブユーザー数)は、20万人近くにまで伸びていた。
※上述のHさんはその後、南場さんの本『不格好経営』にも登場している。それだけの人を担当につけてくれたのだから、DeNAさんもそれだけ注目していてくれたのだろう多分
売上とDAUと自転車操業と
さて、想定外のスタートを切るというのは、もちろん良いことばかりではない。
劇的に増え続けるユーザーに対して、対応できるカスタマーサポート(CS)の人員すら1人もいない状態なのだ。
前述したデバッグの雑さもあり、連日100件を超える問い合わせメールが着信していた。内容もひどくて
「なんやこれ!急に動かんようなったで!アホ!」
「課金したのにアイテムが使えへんぞ!詐欺か!ふざけんな!」
といった内容が届くのだ。誇張どころか、もっと強い口調のものもある。
そんな100件以上のメールを、毎日自分で返信していた。
当時のモバゲールールで、CSは24時間以内に返信しなければいけないというものがあった。
そのため、一通りの業務が片付いた午前0時ごろから返信作業を開始し、3時か4時くらいにやっと終わるという日々だった。
かつて経験したことのない、一般ユーザーに対する返信というプレッシャーに加え、上述したような地獄の文面が大量に届くのである。
新卒3年目ボーイのメンタルは確実に削られていったが、売上の好調さと、ウンコを出したときよりマシという想いが支えていた。
ちなみに休日だろうとこの24時間ルールは適用された。
当時はリモートワーク環境など皆無だったので、メール返信のためだけに土日とも出社する始末だった。まさに地獄である。
(そんななかでも男女でキャンプにいくという超リア充イベントがあり、そのときだけはシフトで別の人に対応してもらったりしていた。もちろんキャンプにいくなどとは伝えていない。)
さすがにその後CSメンバーも採用され、なんとか人間ぽい暮らしができるようになったが、状況は変わらない。
ソーシャルゲームは運用が命であり、ゲーム内のイベントが途切れることなく追加されなければユーザーが離脱してしまうのだ。
しかし、イベントなどリリース前に用意する余裕など皆無であった。
当たるかどうかもわからないのに、運用のことまで考えて開発する選択肢などなかったのだ。
必然、ユーザーが飽きてしまう前に超速で開発し、イベントを提供していくしかないのだ。
当然、そんな状況下での運用は、どこかで綻びが出るものである。
会社に三連泊して朝9時のリリースという暴挙
さて、自転車操業だろうがなんだろうが、やるしかない。
なんせ、リリース初月の7月の売上は数千万円を超えたのである。
具体的には、ほとんど開発費を初月でペイしたくらいの売上であり、あとは利益が積みあがるのみという夢のような状況であった。
いわば全員がランナーズハイのような状態になっており、リリースしてからほぼ毎日出社しているにも関わらず、気力は充実していた。
そんななか、事件は起きる。
2010年8月13日(金)、次のイベントを実装するために、チームメンバーは前日から会社に泊まりこみで開発を続けていた。
その日、自分だけは有給を取り、男女で「亀戸ホルモン」に行くというリア充イベントを満喫していた。
※CS対応などで土日もずっと休みがなかったので、さすがにここで休むのは許されると思う
とはいえ開発真っ最中である。ホルモンを満喫したあとは、一気にシラフに戻り会社へと向かった。有給実質8時間。
開発メンバーに合流し、未完成のシナリオやマスタ作成をする必要があったのである。
ちなみにホルモンを食べ過ぎたのか、そのあと会社のトイレで思いっきり吐いたのを覚えている。
そんな最悪の体調をメンバーには隠しつつ、開発は進む。
とにかくイベントのシステム自体も開発されていないので、ゼロからプログラムを作ってもらっているという状況であった。
そのときのイベントの概要は以下のような感じであった。
・交通事故で無くなった姉「ゆうな」と、残された妹「れいな」が登場
・妹はアイドルになる夢をもっていた姉の遺志をついで、アイドルを目指す
・姉は幽霊となってからもアイドルを目指す夢を捨てきれず、プレイヤーがアイドルとして育て上げることで夢をかなえ”成仏”させる
・姉の「ゆうな」は、スカウトから24時間以内にデビューさせないと”蒸発”して、手元からいなくなってしまうという特別仕様(面白さと時短アイテム課金を狙った仕様)
このイベントは本来、8月12日くらいにリリースしたかったが、開発が間に合わず、会社に泊まりこみでずっと開発を続けていた。
なおこの開発の間、エンジニアKさん(当時31)の携帯がずっと鳴りっぱなしであった。
メンヘラ気味な彼女からひたすら連絡がきており、
「なんで帰ってこないの?」「浮気してるの?」「もういい私は死ぬ」といったメールが絶え間なくきたり、電話が着信したりしているのだ。
このプレッシャーの中、黙々と開発を続けてくれていた責任感と精神力には本当に頭が下がる。
一通りの開発が終わったのは、8月15日(日)の朝7時。三連泊である。
担当チームメンバー全員が会社に泊まり、その時間でもみんな起きていた。
僕「ストーリーのライティング終わって、マスタも作り終わりました!」
Kさん「こっちのプログラムも、大丈夫そうです!」
僕「じゃあデータ入れてデバッグ始めましょう!」
そんな感じである。火事場も火事場。
そうして2時間ほど触ってみて、微修正をしたところで朝9時にリリースした。
リリース直後からユーザーの反応は非常によく、ドラマチックなストーリーもあってか課金も非常によかった。
管理画面の売上を見ていたディレクターのWさんが、「こういうのがあるから、やめられないよね」と笑顔で言った。
あんたそれはもう病気や。
ひとまず絶好調な売上推移に安心し、エンジニアKさんが彼女に刺されないようみんなで祈りながら帰宅した。
「僕のゆうなちゃんがいないんです!」~アイドルの蒸発と4千件のCSメール
さすがに疲労困憊のなか、体を休めてから翌日出社した。
代休?そんな概念は(当時)聞いたことがない。
会社につくと、即座にCSのメンバーから声をかけられた。
「三浦さん!CSに4千件以上の問い合わせが届いてます!」
さすがに逃げ出したくなったのを覚えている。
あれだけ全員で苦労したというのに、またヘヴィな問題が発生したのかと思うと気が遠くなった。
状況を確認すると、メールは前日16時以降から一気に増えていた。
調査の結果、どうやら「姉の”れいな”をスカウトしてから24時間以内にデビューさせないと”蒸発”していなくなってしまう」という仕様が、誤って16時に全ユーザー一斉に適用されてしまうというバグが原因のようだった。
バグの修正自体は即座に終わるようなものであったが、ユーザーへの補填やメール返信対応など、発生する作業はかなりのボリュームだった。
「僕の"ゆうなちゃん"がいなくなっちゃったんです!どうすればいいでしょう!せっかく会えたのに!」
こういった悲痛なメールを読みながら返信していくのは、申し訳なさとともにユーザーのリアルな熱量を感じる機会でもあった。
「ここまでの思い入れを持ってプレイしてくれていたのか…」
それまで、なんとなくユーザーがデジタルの向こう側にいるという実感がなく、数字ばかり見てきた新卒3年目ボーイにとって、
初めてリアルなユーザーの熱量を心から実感できたという事件でもあった。
その後なんとか補填対応も終わり、また自転車操業の日々へと戻ることとなった。
結局のところ状況が変わることはなかったが、気合でひたすら乗り越え続けることで、その半期の全社ベストプロジェクト賞を受賞することができた。
なおエンジニアKさんは、その後なんとかメンヘラ彼女と別れることに成功し、今では別の女性と結婚して幸せに過ごしている。
最後に
前回に続き、今回も火事場プロジェクトのリアルを書いた。
当時のクレイジーな熱気を伝えるという意味では、前回以上にカオスな話だったのではないかと思う。
当時を振り返ると、自分をはじめ、誰もが未熟であり手探りな時代だった。
幾多の失敗を経験し、それを改善するために組織や設備を整え、より大きなプロダクトを作ることができるようになっていった。
いまやモバイルゲーム市場は年間1兆円を超える市場になっているが、その市場が出来上がるまでは、こんなことをやっている会社の試行錯誤があったのだと知ってもらいたいと思った。
自動車であれ家電メーカーであれ、どんな業界も最初はベンチャーだったのだろうなあと思うと、先人たちの苦労を想像して頭が下がる思いである。
時代が過ぎて行っても、過去なくして今はないということを忘れないようにしたい。
以上
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