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「優しさのベクトル」

「なんでこいつらこんな自己中なのだろう。」
海外で何度この負の感情を抱いたことか。例えば飛行機内でひじ掛けは間違いなく占拠されるし、ホステルの室内では夜中であろうとイヤホンも使わずに動画を大音量で見ていたりする。日本人であればまずしないことばかりだ。
その度に「なんて嫌な奴だ」と表に出さずとも敵愾心を抱くのだが、その火がなかなかどうして続かない。というのも、「嫌な奴」のはずの彼らは、僕の気も知らずに屈託の無い笑顔で話しかけてくることがざらにあり、更にはお菓子をくれたりなんかもする。「良い奴」なのだ。

三十余年を日本で生きてきた僕はその度に混乱してしまう。年を重ねるごとに他者への第一印象の精度は上がっているので(或いは感受の柔軟性を失っていっているとも言えるが)、心象を180度方向転換することは容易ではない。しかし、それが頻繁に起こってしまったのである。
果たして彼らは本当に「良い奴」なのか。そんなことを考えているうちに、比較文化的なある結論が生まれた。

日本人と外国人の「優しさのベクトル」の違いである。
先述の例からすると、日本人の場合、自分がひじ掛けを使わない、うるさくしないことで相手が快適に過ごせるだろうという「しない」気遣いが優しさなのである。
しかし、外国人の場合はこの「しない」優しさが見られないかわりに、「する」施しの優しさに満ちているのだ。
逆に日本人はこの「する」優しさが乏しいのだと考えられる。
これはどちらが優れているという類の話ではなく、あくまでも逆ベクトルなのだ。
この文化的差異の原因を紐解いていくと、宗教学的、とどのつまり地理学的な要因(ごくごく簡単に言えば和を重んじる定住型農耕民族と交渉、契約の移住型狩猟民族の違いが大きいのではないか)が思い当たるが、考察することが多すぎるのでここでは控える。

ただ、この相反するベクトルの優しさでどちらが人や社会から評価を得やすいかは明らかである。何故なら「しない」優しさは目に見えず、受け手の感受性が必要とされるが、「する」優しさは可視化されているのである。グローバリゼーション化された世界の中で日本人が遅れをとる要因の一つもこれなのではないか。
また、恋愛という狩猟においても「しない」優しさほど評価されないものはない。「外人はレディーファーストが出来るけど、日本人の男は、、」などとよく耳にするが、日本男児が別段優しくないとは僕には考えられない(と信じたい)。
だが、僕はこんな報われない優しさを持つ日本人が大好きだし、そんな国民性を誇りに思う。一方で、外国人の「する」優しさを受けた時の喜びも忘れられず、見習わねばとも思うものだ。

願わくば両ベクトルを備えた、絶対値の大きい優しさを併せ持ちたいものである。

I'll a perfect human.

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