祖母と僕

 祖母が膵臓ガンになった。僕はこの事実を身内の誰よりも早く知った。めったに連絡をしてこない祖母が突然電話をよこし、開口一番にガンであること、治療をするつもりが無いこと、他の身内に内緒にしてほしいということを告げてきた。僕は混乱し、うろたえた。本音を言えば治療をして少しでも長生きしてほしい。小学生の時に約束したハワイ旅行に連れていきたいなんて事を考えながらただ一言「そっか」とだけ返事をした。それからは祖母と連絡を取る頻度を頻度を増やし、とにかく沢山話した。その中で「家族にガンのこと話そう」と提案をしたこともあったが、頑固な性格の祖母は聞く耳を持たず、最終的には僕のほうが折れてしまった。
 
ガンが進行し、余命宣告をされた2022年6月、僕は実家に飛んで帰った。この頃には身内のほとんどが祖母の体の体調のことを知っていた。久しぶりに会う祖母は記憶の中の姿よりも大幅に痩せ細り、おぼつかない足取りで出迎えてくれた。顔を見た瞬間泣きそうになった。二人でたばこを吸い、色んな事を話した。彼女のこと、バイトのこと、就職先のこと…
鹿児島へ帰る日、祖母が僕に弁当を渡した。「これが最後の弁当だよ」と言い渡された弁当には僕の大好物ばかりが詰め込まれていた。僕は「また作ってよ」と言い鹿児島へ帰り、泣きながら弁当を食べた。すこし塩味がきつかったのは味が濃いものが好きな僕への配慮だったのだろうか。

あと一ヶ月もつか分からないと言われた8月中旬、バイトの休憩中だったが早退し、その月のバイトも全部休みにして宮崎へ帰った。そこには腹水がたまったことで、痩せた体にはアンバランスなお腹の膨らみを抱えた祖母が叔母につれられて病院から自宅へ帰ってきた。歩くことが困難になっている祖母を大人3人で抱えて自宅のある三階まで連れて帰った。そこから先は一日ごとにできないことが増えていった。トイレでおしっこができない。大便が出ない。固形物が食べられない。会話ができない。水が飲めない。
それでも祖母はまだ生きている。1歳になる妹が泣けば、目を覚まし「誰が泣かせた」と怒り、僕と従姉妹が軽口を叩きあえば口角をあげる。手を握れば温かいし、脈も打っている。でももう長くはない。

宮崎に帰ってきてから、その日が来るのが怖くて仕方がない。祖母は「男が泣くな」が口癖の人だ。僕は祖母が亡くなったときに泣くのを堪えられるだろうか。人前でなければ泣いても許してはくれないだろうか。

今はまだ、祖母は生きている。

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