連載第3回:『結婚の哲学史』序論―第3節 結婚の形而上学の三つの公理
結婚に賛成か反対か、性急に結論を下す前に、愛・ 性・家族の可能なさまざまなかたちを考える必要があるのではないか。昨今、結婚をめぐってさまざまな問題が生じ、多様な議論が展開されている現状について、哲学は何を語りうるのか――
九州産業大学で哲学を教える藤田先生による論考。今回は第3回、序論の第3節を公開します。
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第3節 結婚の形而上学の三つの公理
結婚の現在――自由を求める気持ち、安定を求める気持ち
さて、このような脱構築的な眼差しで結婚の哲学史というものを見ていったときに、どういうことが見えてくるのか。歴史を遡っていくのは本書全体の課題なので、ここでは現代社会において結婚をめぐって生じている諸問題をざっと概観しておくことにしよう。
現在、政治的、経済的、あるいは文化的に非常に大きな変化が生じ、グローバリゼーションによって、ヒト・モノ・カネ・情報が激しく行き交うようになっている。社会学者ジグムント・バウマンの印象的な言葉を借りれば「リキッド・モダン」、要するにきわめて流動的な世の中になってきており、それに応じて人間関係の量・範囲だけでなく、質・性質自体も変化してきているように見える。きわめて局所的な人間関係を軸に社会が形成されていた時代とは違って、今は人の動きがどんどん流動的に、広域的になってきている。一見すると個人主義が先鋭化してきているように見える。
その結果、私たちは地理的にも、国籍・人種的にも、昔と比べてはるかに多種多様な人たちと出会うことになる。昔であれば村のなかでごく限られた人たちのなかから、家の都合で結婚相手を選んでいたところが、自分の意志次第で、あるいはさまざまな偶然が積み重なった結果、遠くの人とも、国籍や人種の異なる人たちとも出会えるようになる。結婚は個人的な選択の問題となり、国際結婚・国際離婚も、もはや珍しいものではなくなった。どういう人を恋愛や結婚のパートナーとして選ぶのかという選択肢が多様化しただけでなく、出会いの場も出会い方も、当然話のこじれ方も別れ方も、多様化した。インターネット、SNSを通じて、簡単に人間関係を構築・拡大できるようになり、また簡単に放棄・切断できるようにもなった。経済的な都合さえつけば、息苦しい共同生活などせずとも、したがってそもそも結婚などせずとも、生きていける。「シングルライフ」(海老坂武)や「おひとりさま」(上野千鶴子)、「選択的シングル」(キスレフ 2023)は、「パラサイト・シングル」(山田昌弘)まで含めれば、一つのライフスタイルとしてある程度定着したことは事実であろう。一方で私たちはそのような状況を肯定的に捉え、積極的に受け入れている。
しかし他方で、そんな風に加速度的に流動的になっていき、移動性や可動性を獲得していく世界に対して、単に流れに身を任せて柔軟に適応していけるかというと、そういうわけにもいかない。可動性があまりに大きいと、私たちはやはり疲れてしまう。可動性が増え、選択肢が多様化し、自由が大きくなればなるほど、私たちはそれを歓迎しつつも、どこかで疲れる。そして疲れれば疲れるほど、安定したくなる。安らぎ、くつろぎ、癒しを求めるようになる。要するに、流動化に人間がずっと耐え切れるかというとそうもいかず、どうにかして落ち着きたい、安定したい、どこかひとところに留まりたい、できれば自分の生まれ育った、自分に馴染みのある場所に帰りたい、という欲望も同時に生じてくる。たとえば夫婦関係の破綻後に国境を越えて“不法に連れ去られた”子どもの扱いを定めたハーグ条約が問題となるのは、そのような文脈においてである。
流動化と安定化――先に名を挙げたバウマンは、この二つの真逆の動向の衝突に現代社会のさまざまな問題の発生源の一つを見て取っている。
自由でいたいが、孤独にはなりたくない。絆をもちたいが、束縛はされたくない。ひとびとの多様な生の在り方をめぐって現代社会に生じている問題の多くは、この〈流動化〉と〈安定化〉という両極をなす二つのベクトルの間で織りなされたものだ。一見個人主義の極限にも思えるこういった状況の中で、愛の矛盾や家族の葛藤から逃げず、責任をもって子どもを一人前の市民に育て上げて社会に送り出すというヘーゲル的な近代的結婚観は、私たちの現代的な生のあり方に合致しなくなりつつある。こういったマクロの変化を念頭に置いて考えてみると、しばしば停滞がささやかれる現代日本にあってさえも、時代は変わりつつある。いままで愛・性・家族が結婚と結んできた関係自体も、これから変わっていくのではないか。いや、すでに変わってきているのではないか。その変化の例を幾つか挙げよう。
最も分かりやすい変化は、先ほども挙げたが、結婚制度の枠に縛られずに生きる「シングル」「非婚」「おひとりさま」というライフスタイルの定着であろう。むろん、この傾向を「未婚率の上昇」と受け止め、「出生率の低下」「少子化」と結びつけて憂慮する人もいるだろうし、そのような言説に対して「結婚せよ、産めよ殖やせよという社会的圧力を感じる」という人も多いに違いない。しかし、いずれにしても、事実だけを客観的に見れば非婚がライフスタイルとして定着したことは間違いない。結婚なき生である。
次に結婚の中に目を向ければ、ここ数十年での大きな変化は「子どもをもつ/もたない」がそれぞれのカップルの個人的な選択に委ねられるようになったということである。むろん未だに「まだ子どもを作らないの?」という家族や社会の側からの有形無形の圧力を感じるという人は数多くいるだろうが、そのような問いかけが慎みのないものと感じられるようになってきているのもまた確かなことではないだろうか。近代的な(ヘーゲル的な)意味での「家族」が出産・育児を含意していたという意味で、現代的な結婚においては「家族なき愛・性」という選択肢が成立しつつあると言えるだろう。「家族」や「家庭」というもの自体に対する私たちの捉え方、とりわけその密閉性に対する私たちの感受性も変化している。これまでの「法は家庭に入らず」の原則は急速に変容し、DVや幼児虐待の問題に関して配偶者暴力相談支援センターや児童相談所などの関係諸機関は、積極的な介入を求められるようになってきているからだ。
さらに最近で言えば、社会的合意が成立したと言える状態からはまだ程遠いが、「アロマンティック」や「アセクシュアル」といった言葉に象徴されるように、愛や性を必ずしも前提しない生き方が選択肢の一つとして確実に登場してきている。狭義の恋愛感情ではなく、趣味でつながりあう友達のような夫婦はその延長線上にあると言えるかもしれない。「愛・性なき家族」と言ってもいいだろう。
愛・性・家族の三つ組は結婚に絶対不可欠なのだろうか。いまのところそう考えられているけれども、もしかしたら着脱可能、離接可能なものかもしれない。「愛なき、性なき、家族なき結婚」、より正確には「愛・性・家族が自由に結合・分離する結婚」のほうが人間はより自由に生きられるのではないか。社会はより開かれるのではないか。
〈結婚の形而上学〉を支える根本三概念
だが、他方で、一見すると容易には変わりそうにない部分もある。それは「愛なき性」や「性なき愛」という愛と性の分離である。「セックスレス夫婦」や「女性用風俗(女風)」というものを考えてみれば、現代の私たちがどの地点で立ち止まっているかがよく分かる。セックスレス夫婦において深刻な問題の一つとなりうるのは、パートナー間で性欲が不均衡なケース、あるいは生活の中でセックスの占める重要性が夫婦で異なるケースである。2023年にはテレビドラマ化もされた『あなたがしてくれなくても』の主人公が結婚五年目の夫とのセックスレスに悩む32歳のOLであったことからも分かるように、男性の性欲だけが問題なのではないし、そもそも性欲だけが問題となるのでもない。現在、女性用風俗を利用する女性たちが増えつつある(山本 2023)。利用する理由は男性同様さまざまだが、アイデンティティとしてのセックスから、マッサージやスポーツの延長としてのセックスに至るまで、この多様性自体が、抑圧されてきた〈女性の性欲〉の解放とともに、愛と性の自由な離接という地点を指し示しているのではないか。
たしかに「今日は疲れてて食事作る気にならないから、冷凍食品をチンして。それが嫌なら適当に外食してきて」とは言えても、「今日は疲れていてセックスする気にならないから、マスターベーションで我慢して。それが不満なら風俗に行って来て」と気軽に言い合える夫婦は多くはない。私たちは、結婚における〈性なき愛〉(セックスレスだが関係は良好)を公然と語れるようになったが、〈愛なき性〉(性のアウトソーシング)とは向きあえていないという地点にいる。むろん性産業に関しては多くの議論すべき論点が残されているので、ここでは詳細に立ち入らず、後で戻ってくることにしよう。さしあたり指摘しておきたいのは、私たちの結婚に関する「当たり前」は常に変化している、という単純な事実である。家事や育児や介護のアウトソーシングは、つい最近まで「家のこと、親や子どもの世話を他人に任せ、金銭で問題を解決していいのか」といった“道徳的”非難に晒されていた。他人からの叱責だけでなく、自分自身の良心の呵責に今なお苦しめられているという人も少なからずいるだろうが、彼らも道徳観自体が確実に変化してきていることは感じているはずだ。
それでもなお、セックスをめぐる問題に対して同じような変化が生じたり、食欲と性欲の婚外における充足を同一次元で考えられる日が来るなどという事態は今の私たちには考えもつかない(藤子・F・不二雄の1972年の短編「気楽に殺ろうよ」はまだ当分のあいだ必読文献であり続ける)。そしてその一方で、これほどセックスレスが問題化しながらも、「愛の次元」と「性の次元」は依然として同一視され続け、セックスをめぐる問題の解決にだけは金銭が絡んではならず(心理的なカウンセリングやセラピー、医学的な治療は良いが、性産業の利用は道徳的な問題がある)、夫婦間でのみ解消されるべきだという考えは自明視され続けている[1]。では、愛と性の同一視は歴史的不変項なのだろうか。その同一視の底には愛・性の独占所有と国家による生政治が絡み合った「結婚の形而上学」が潜んではいないか。私たちが解きほぐさなければならないのは、まさにそのような“コンプレックス”――いまでは「劣等感」や「無意識的な固定観念」も意味するが、本来は「複合体」という意味である――ではないのか。
こうして現代社会のダイナミクスを規定する流動化と安定化の両極が形成する磁場のなかで生じてくる結婚にまつわる諸問題を概観したことで、それらの諸問題に通底するものが見えてきた。それは、結婚の無意識的な形而上学を支える三つの公理である(「公理」(axiom)とは、とりわけ数学の領域で、論証がなくても自明の真理として承認され、他の命題の前提となる根本命題のことだ)。三つと言ったが、これはそのような公理ないし根本概念は三つしかないということではない。さしあたり三つ、ということである。また、この三つはそれぞれ完全に独立しているわけではなく、むしろ密接に関連していて、たとえば、一つの話をしていると、必然的に他の二つの話になってしまうといった具合である。
まず、①「契約・約束」である。結婚には「愛を誓うもの」という暗黙の前提がある。「永遠に」なのか「できるかぎり長く」なのか「とりあえず」なのか、それは人によってさまざまだが、ともかく「誓った/契約した/約束したのだから、履行しなければならない」という考えが前提されていることは間違いないように思われる。
次に、②「所有・優先権」。「あなた(私)は私(あなた)のもの」という、つまり「所有している/されているのだから、好き勝手にはできない」という暗黙の前提がある。そこには優先権があって、その権利を侵害された場合には精神的謝罪・道義的制裁・物質的補償がなされてしかるべきだということを人びとは自明視している。
最後に、③「人格・個人」だ。「制度的・体験的に所有する/される『私』『あなた』」というものがいなければ、①や②は成り立たない話で、③が必ず必要である。「私」とか「あなた」という権利や義務や責任の主体として措定され確定される「個人」がいるということは、口に出すのもはばかられるほど当然のことだと考えられている。
それにしても、①にせよ、②や③にせよ、なぜこんな当たり前のことを言うのかと疑問に思われる方もおられよう。しかし、だからこそ〈無意識の形而上学〉なのであり、だからこそ「脱構築」する必要があるのだ。これから本書を読み進めていくなかで、「いま “当たり前”と見えているものも、実はそれほど当たり前ではないのかもしれない」という疑念が読者の心のなかで徐々に芽生え、少しずつ大きく育ってくれれば、本書は目的を達したということになる。
脱構築は確実に進行している
ここまでの話をまとめよう。結婚の哲学史を主題とする本書をクサンティッペの話から始めたのは、「悪妻クサンティッペがソクラテスを迫害することで哲学者が生まれた」といったステレオタイプを持ち出したかったからでは無論ない。クサンティッペは悪妻だったのか否か、ソクラテスはまともな夫だったのか否か。そんなことは他人に分かるわけもない。そうではなく、クサンティッペが浴びせかけたものを、家庭のなかで不可避的に生じてくる哲学的な諸問題のアレゴリーと捉えることから本書を始めてみたかったのである。
さらに、ミュルトーという哲学史から抹消され忘却された影のような存在を忘れない眼差しをもって結婚の哲学史を始める必要があると考えた。クサンティッペとの嵐のような生活のなかで、もう一人の女性ミュルトーとの結婚に踏み切ったソクラテスはいったい何を考えていたのか。もう一度繰り返すが、大したことは何も考えていなかったかもしれない。古代ギリシアにおける結婚が「基本的に財産の取引と家族の同盟の手段」(Fitton 1969 : 63)だったのだとすれば。だが、このような家庭状況のなかで、知徳一致・知行一致を唱えるソクラテスの脳裏に結婚に関する何の思索も生まれなかったと考える方がむしろ不自然ではないか。ソクラテスをクサンティッペとの関係の中だけで考えるのではなく、ミュルトーやさらには同性愛関係のなかで考えること。無意識の形而上学の言うなりになって「正しい」とか「正しくない」とか人を断罪するためではなく、結婚を取り巻く困惑させる現実があることを認めたうえで、むしろその形而上学をいわば精神分析にかけて無意識の欲望を露呈させるような哲学は出来ないものだろうか(第一節)。
これまでは〈愛・性・家族〉がセットになり、固く結びついて結婚というものを構成していると思われてきたわけだが、そうではない結婚というのも、いつでも、どこにでもあった。そのような観点から無意識の形而上学を遠心力と求心力という複数の力線のせめぎあいとして読み解き、現在結婚に起こりつつある変化の微細な兆候を見逃さず書きとめていく作業、それが私の考える「結婚の脱構築」である。もちろん、求心力と遠心力というのはあくまでも比喩にすぎず、実際にはもっと複雑な諸力の絡み合いがあるわけだが、いずれにしても、いわゆる体系性(求心力)を追求しようとするタイプの読解は、間違いではないにしても、かなり恣意的で一面的な、多くの“枝葉”(と彼らに見えるもの)を切り捨てることで成立する、比較的解像度の粗い読解となっている危険性がある。デリダの「脱構築」は、ある哲学者のテクストを諸力のせめぎ合いとして、つまりより多層的・多元的に読むという意味では、より解像度の高い読解である可能性がある。誤解はないと思うが、「可能性がある」と書いたのは、脱構築が他の分析手段より不確実だからではない。どのような手法を用いようが、最終的な目的が達成されるか否かはその手法の用い方如何にかかっているからである(第二節)。
結婚の脱構築の手始めに、流動化と安定化のはざまで揺れ動く結婚の現在を分析した。流動化のなかで愛・性・家族を結婚から切り離すということはこれからますます行われていくだろうが、しかし同時に、無意識の形而上学も簡単に解体できるわけではないので、その解体しがたさを見つめることも忘れてはならないだろう。いつの時代も、常にすでに〈結婚〉のなかでは、〈結婚〉を横溢し逸脱しようとする力と、〈結婚〉を維持し安定させようとする力が働いており、その二つの力の衝突こそが逆説的に〈結婚〉を支えてきた。いまの日本のなかでも、さまざまな歪みを伴いながら――地上に楽園はない――ではあるが、至るところで、家族と結婚の脱構築は進んでいると言えるのではないだろうか。こうして姿を現した〈結婚の形而上学〉を支える三つの根本概念、契約・所有・個人を簡潔に指摘した(第三節)。
そのオルタナティヴの可能性(約束・脱所有・人格)まで含めて仔細に検討していくのは、本書全体の任務である。次回から本書の第一の中心的主題である「ヘーゲル、キルケゴール、マルクス」に入っていくが、なぜ彼らが出発点となるのかについて簡単に触れておこう。結婚の哲学の歴史を振り返ると、古代ギリシアにおいては、経済ないし生殖のための単位としての結婚は、現代的な意味での「家族」ではないにしても、「家」の維持と、それを通じての「国民」の再生産を第一義的な目的としていた。中世以降、そこに性行為の道徳的正当化が統合され、さらに近代に入って、個人的な契約としての結婚という根本的な観点の修正が加わる。しかし、未だ愛という要素は十分には組み入れられていなかった。近代的なロマンティックラブも組み入れ、愛・性・家族の強固なトリアーデを市民社会や国家との連関の中に正確に位置づけようとしたという点で、ヘーゲルは近代的な結婚観を完成した(そして完成と同時に揺らぎ始めた)と私は考えている。そして、ヘーゲル以後の哲学者・思想家たちはみな、賛成するにせよ反対するにせよ、近代的な結婚観に対する態度決定を迫られることになった。だからこそヘーゲルから出発する必要があるのだ。
これから私たちは西洋哲学史を代表する哲学者たちを召喚し、上記で簡潔に紹介した脱構築の作業のどの段階においても、彼らの語る言葉に注意深く耳を傾けることになる。四つの点に短く注意を喚起しておく。第一に、本書でこれから取り扱う哲学者たちのテクストはたいていマイナーなものではなく、むしろ著名なものばかりであること。第二に、私たちの読解は多くの点で“法外”なものに見えるかもしれないが、従来の支配的イメージをなぞるだけの読解以上に、思想家たちの“精神”に忠実なものであること。偉大な哲学者たちが「結婚」や「愛」「性」「家族」などという卑俗で些末で日常的な形而下の事柄に精魂を傾けていたわけがないと思われるかもしれないが、哲学史を虚心坦懐に繙いてみれば、事実はそうではないことが分かる。第三に、ただ単に西洋の大哲学者たちを解説するだけで満足せず、現代日本の問題と結び付けるように努めたい。思想は生きていなければ意味がない。本書は、アクチュアリティと思想史の〈あいだ〉をすり抜ける反時代的な哲学実践の試みであろうとしている。第四に、私が今から語ろうとしている結婚の哲学史の端々に女性哲学者の名前が出てくるとしても、残念ながらそれは常にマージナルな形でしかないではないか、という反論の声にどう答えるかということがある。哲学史とは男性哲学者の歴史にすぎず、結婚の哲学史という試みそのものが男性中心主義的・家父長主義的にすぎないのではないか。これに対しては本書全体を通じて答えていくしかないし、私自身、本書の執筆を通じて自分の考えが揺り動かされ、変化していくことにどこまで開かれていけるかを見届けてみたい。
次回:2月9日(金)更新予定
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