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【試し読み】知ってるつもりの『百科全書』

さて、『百科全書』とはなんでしょうか? 

たしか、昔のフランスの百科事典……そう「18世紀フランスで、ディドロとダランベールが編纂した百科事典、いわゆる啓蒙思想の集大成……」と高校の教科書などに書かれていたでしょうか?
教科書的な知識だけで知ってるつもりになっていても、『百科全書』が実際に、誰によって、どのように作られたのか、なぜ歴史に名を残したのか、そこに何が書かれているのか、その全体像を知ることはとてもむずかしい。なにせ全28巻もあるんです(そしてフランス語ですし……)!


井田尚『百科全書――世界を書き換えた百科事典』は、そんな読者の悩みにおこたえして、『百科全書』の成り立ちから、深い内容まで、最新の研究の知見を踏まえて解説しようとする一冊です。日本の読者の多くが足を踏み入れたことがない『百科全書』という広大無辺な知識の世界への道案内となってくれることでしょう。


ここでは、この本の一部となる『百科全書』刊行の裏話を紹介します。もともとはイギリスで先行して出されたチェンバーズ百科事典のフランス語訳を刊行する予定だったのですが、フランスオリジナルの事典を編纂することになったのです。そしてさらにアンチによる激しい妨害を乗り越えて刊行にこぎつけた顛末が書かれています。

百科全書 扉絵

(図)『百科全書』第1巻の扉絵

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『百科全書』はどのように編纂・刊行されたのか

チェンバーズ百科事典の仏訳から『百科全書』へ

『百科全書』の出版事業は、1745年1月に、ゴッドフリート・ゼリウスという人物がル・ブルトン書店にエフライム・チェンバーズによる百科事典『サイクロペディア』のフランス語訳の出版話を持ちかけたことに端を発する。同年2月には、ゼリウスとジョン・ミルズなるもう一人の人物とル・ブルトン書店の間に契約が結ばれ、3月にはル・ブルトン書店が出版允許(いんきょ=許可)を獲得する。当時のフランスは王権による出版統制が敷かれており、書籍の出版には允許が必要だった。

1746年には、編纂者に抜擢された科学アカデミー会員のギュア・ド・マルヴ神父と、ル・ブルトン、ブリアッソン、ダヴィッド、デュランの四書店との間に『百科全書あるいは学芸に関する万有辞典』と題された辞典に関する契約が結ばれる。項目の執筆協力者には、書店側からミルズとゼリウスによるチェンバーズ百科事典のフランス語訳が項目のたたき台として用意された。

サイクロペディア

(図)イギリスのチェンバーズ『サイクロペディア』
初版は2 巻本だった。全28巻の『百科事典』はチェンバーズ百科事典を質量ともに凌駕していたことがわかる。

だが、翻訳の出来があまりにひどかったため、同年から、フランス語訳の監修役としてディドロが雇用される。ディドロとダランベールがチェンバーズの再翻訳の作業に自ら携わっていた形跡は、書店の帳簿の支払い記録にも残されている。

当初、『百科全書』の編集を担当したのは科学アカデミー会員のギュア・ド・マルヴ神父であったが、1747年からディドロとダランベールに編纂の任務が託された。『百科全書』の刊行企画は、ディドロとダランベールを編纂者に迎えることによって、チェンバーズ百科事典の単なるフランス語訳から、『百科全書あるいは学問・技芸・工芸の合理的辞典』を名乗る本格的な百科事典へと大きく舵を切ることになる。

度重なるスキャンダルと刊行中断を乗り越えて

1750年には『百科全書』の予約購読者を募るための「趣意書」(いわゆる第二趣意書・執筆者ディドロ)が8000部印刷・配布された。1751年に『百科全書』第1巻が発売されると、たちまち大きな反響を呼ぶ。しかし、『トレヴー辞典』の刊行元で『百科全書』をライバル視するイエズス会は、雑誌『トレヴー評論』誌上で、『百科全書』による「剽窃・盗用」を攻撃し、同辞典が王権や信仰の基盤を掘り崩す危険な書物であるとの批判を展開した。
1752年1月には、折しも宗教項目の執筆者のひとりド・プラド神父がソルボンヌ大学神学部に提出した博士論文が異端の断罪を受ける、いわゆるド・プラド事件が起きる。その最中に『百科全書』第2巻が出版されるが、ド・プラド事件の背後に宗教破壊を企む百科全書派の陰謀を見て取るイエズス会の働きかけにより、既刊の2巻分の刊行と販売を禁ずる国王顧問会議の決定が下り、『百科全書』刊行事業は一度目の中断の危機を迎える。幸い、『百科全書』の出版事業に理解がある出版局監督官マルゼルブの根回しもあり、1753年には第3巻が刊行され、以後、第7巻まで毎年1巻のペースで刊行が進む。

ディドロ 肖像

『百科全書』の監修者・ディドロの肖像

だが、1757年に刊行された第7巻の項目「ジュネーヴ」は、カルヴァン派を異端扱いし、ジュネーヴ市内での劇場建設を勧めるその内容が大きなスキャンダルを呼ぶ。1757年の国王暗殺未遂事件以来、1758年のエルヴェシウス『精神論』の発禁に見られるように言論統制が強まりを見せる中、事態を重く見た国王顧問会議の決定により、『百科全書』は1759年に出版允許を剝奪されてしまう。
この二度目の刊行中断は、ダランベールが共同編纂者の任を降りて数学項目の執筆に専念し、他の多くの執筆協力者が離反するなど、手痛い打撃となった。『百科全書』の刊行計画にはたちまち暗雲が立ちこめたが、ディドロは、海外での刊行計画の続行を勧めるヴォルテールやロシアの女帝エカチェリーナ2世の提案も断り、検閲による言論弾圧の厳しいフランス国内で『百科全書』の残りの巻の準備を進める決意を固めた。この決断は、必ずしもディドロ個人の哲学者としての勇気や責任感ばかりでなく、契約や原稿が書店の側に帰属し、国外での印刷・刊行が事実上困難であるという物理的制約にもよるものだった。
元より『百科全書』の刊行計画に理解を示していた出版局監督官マルゼルブが第2次刊行中断に際し、本文の出版允許を剝奪する一方で、図版の巻の刊行に新たに允許を付与し、政府が命じた本文の予約購読者への予約購読料の返金を回避するなど、刊行の続行を黙認・支援したことも大きかった。この間に、反百科全書派の急先鋒であったイエズス会が1762年にフランス国内から追放されたことも出版計画続行の追い風となった。

ついに完了した『百科全書』刊行計画

いずれにしても、共同編纂者ダランベールの離脱により、1759年以降、ディドロは『百科全書』の執筆・編集・校正などの雑務をほとんど一人で背負うこととなった。ディドロはいつまで続くか知れぬ編纂・執筆作業を「苦役」と呼んで我が身の悲運を嘆き、まともに仕事をしない執筆協力者たちに時に恨み言を述べながらも、ジョクールという百人力の助っ人を得て、編纂・執筆作業を進めた。
本文第8から第17巻の準備はフランス国内で非合法に急ピッチで進められた。1762年にヴォルテールが再度残りの巻の海外での刊行を勧めたところ、ディドロは、国内で印刷が進行中で、手元に校正刷まであることを理由にこの申し出を断っている。こうして、反百科全書派など守旧派による度重なる妨害や刊行中止などの危機、さらには、無断でディドロの原稿に自己検閲による修正を加えた版元のル・ブルトン書店の「裏切り」にもかかわらず、1766年には本文第8巻から第17巻が刊行された。
とはいえ、第2次刊行中断以来、『百科全書』本文の第8巻以降の巻は、表向きには存在しないことになっていたため、版元をスイス・ヌーシャテルのサミュエル・フォルシュ書店と偽り、ディドロの名前を表に出さないなど、苦肉の策が取られた。1762年から逐次刊行されていた図版の方も、1772年に最後の2巻が刊行された。こうして本文17巻、図版11巻からなる『百科全書』は、ついに日の目を見たのであった。それも、本来なら作家として一番脂が乗る30代から50代の20年近くを『百科全書』に捧げ、最後まで編纂の現場に踏みとどまったディドロの自己犠牲とプロデューサーとしての力量があってのことであろう。

(この続きは本文で……)

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【著者プロフィール】
井田 尚(いだ ひさし)
青山学院大学文学部教授。18世紀フランス思想専攻。
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程満期退学。パリ第8大学博士課程修了。博士(DL)。
主な著書に、Genèse d'une morale matérialiste : Les passions et le contrôle de soi chez Diderot (Paris, Honoré Champion, 2001)、『科学思想史』(共著、勁草書房、2010年)、『百科全書の時空 典拠・生成・転位』(共著、法政大学出版局、2018年)、主な編訳書に『ディドロ著作集 第4巻 美学・美術 付・研究論集』(法政大学出版局、2013年)がある。

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