【試し読み】『十四億人の安寧――デジタル国家中国の社会保障戦略』
14億の民、2.8億の高齢者を抱える巨大国家・中国は現在、経済・人口・財政面で三重苦に直面しています。特に、国の安定を左右する社会保障をどう持続していくかが今後の重要な課題です。
『十四億人の安寧――デジタル国家中国の社会保障戦略』(片山ゆき 著)では、インシュアテック、ヘルステックなど最新デジタル技術を擁する民間企業を巧みに巻き込みながら、大変貌を遂げつつある中国社会保障の知られざる側面を解説します。
このnoteでは、「まえがき」を特別に公開いたします。ぜひご一読ください。
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中国の社会保障は未整備か
中国の社会保障制度に「にわかに」関心が集まったのは2022年、中国の総人口が減少に転じたタイミングである。少子高齢化、人口減少、経済成長の鈍化の中で、老後の生活を支える年金や医療は大丈夫なのかといった切り口だ。その結論の多くが「中国では社会保障制度が整備されていないため、課題は大きい」というものであった。
本書の目的は、中国社会が大きく変容する中で、「中国の社会保障制度はどのようなもので、それをどのように持続可能なものにしようとしているのか」を探る点にある。中国にはすべての国民が加入できる社会保障制度があり、医療、年金、失業、労災、介護(試行中)、生活保護など日本とほぼ同じラインナップで揃っているということは、一般にはあまり知られていない。しかし一方で、給付が日本のように手厚いかというと、そこまでの水準に達しているわけではない。重要なのは「整備」という言葉をどうとらえるかであろうが、そもそも社会保障制度は国や地域、整備をした時期の経済状況・人口動態などによって大きく異なってしまう。
興味深いのは、中国の社会保障制度の本格的な整備が欧州や日本の時期より50年ほど遅れたことで、むしろ欧米が抱える課題を先取りした改革・整備を行っている点だ。視点を換えると、制度が「整っていない」「遅れている」というよりは、世界の既存の制度とは異なる新しいあり方を探り、模索しているようにも思えるのだ。その理由は、日本や欧州は第二次世界大戦以降、政府による責任を大きくし、給付を手厚くする福祉国家体制をとったが、財政的にしだいにそれが立ち行かなくなってゆく姿を横目で見ていたからである。
そこで中国がとった手法が、民間市場の積極活用である。共産主義の国で意外と思われるかもしれないが、今やテクノロジーを活用したフィンテック(金融×IT)、インシュアテック(保険×IT)で、社会保障制度やサービスのあり方そのものを大きく変革している。
社会保障制度といえば、普段なじみがある日本や欧州で採用されている、「政府責任が大きく、給付が比較的手厚い制度」をイメージしそのようなシステムを備えている国が、「整備されている国」と判断しがちだ。国や地域によって社会保障制度の役割はほぼ同じだとしても、給付の範囲や多寡、政府と民間市場の守備範囲をどうするかといった制度のあり方は大きく異なる。遅れて整備を開始した中国は、当初の設計から政府(官)による責任を小さくし、給付は基礎的なものにとどめた。そして、それを補完するために、政府(官)と民間保険会社、NPO(民)、家族・共同体など(私)の活用を強化し、リスク保障の内容を幾重にも重ねること(多層化)で、整備しようとしているのだ。
なお、本書では中国の社会保障の理解を深めるために、特にセーフティネットがダイナミックに再構築される医療保障分野を中心に取り上げている。公的医療保険制度のみならず、地方政府と民間保険会社の独自の関係性、市場の監督手法、消費者のリスク保障ニーズを通じて、中国における特性を捉え、そこから社会保障制度全体への議論につなげることとする。医療保障を選んだ理由は社会保障の中でリスク保障のあり方の変化が顕著で、中国における今の社会保障全体のあり方を如実に反映しているからである。
「十四億人の安寧」
人が社会で生きていく上では、さまざまなリスクに直面する。たとえば病気になって治療が必要となったり、仕事中にケガをしたり、定年退職後に生活をどう維持していくかも大きなリスクである。社会保障はそういった社会で生きていく中で発生する疾病、障がい、失業、退職、加齢、死亡などにより困難に陥った人々を助け、生活の安定をはかり、安心をもたらす社会的安全装置(社会的セーフティネット)の役割を持っている。
中国はいまや世界最大規模の社会保障制度を運営している。加入者数もさることながら、その経費も莫大だ。2022年の社会保障に関する経費は前年比11.7%増の5.9兆元(120兆円)となった。これは同年の一般公共予算(一般会計)の22.7%を占め、最大の支出となっている。中国の場合はよく国防費が話題となるが、その4倍の規模である(ただし、国防費の詳細な内容について財政部は公表しておらず、全体像も不明である)。
社会保障関係費はこれまで一貫して増加しており、習近平政権以降の9年間でもおよそ3倍に膨れ上がっている。経済成長が鈍化し、財政赤字が膨らみ、少子高齢化が急速に進む中で、既存の制度の維持に加えて、高齢者向けの給付が急増しているのだ。人口、財政、社会保障関係費の三重苦に直面する中で、社会の安定を維持し、14 億人を対象とする社会保障制度を将来にわたって継続するには、どのような策をとる必要があるのだろうか。
「民の視点」という死角
では、中国の社会保障制度をどういった視点からとらえたらよいのだろうか。これまでも中国の社会保障制度について論じた著作は多数あり、優れたものも少なくない。経済移行論の枠組みの中での政策・制度の評価、監督規制・財政などの分析や、東アジアにおける福祉レジーム論など多岐にわたる。つまり、多くが政策や監督規制など政府(官)の視点からの分析を中心としてきた。
一方、それを支える民間保険会社など企業(民)の視点からの分析はある意味「死角地帯」(李[2014a]1121ページ)とされてきたのだ。今回、本書で新たに論じようとした背景には、中国における社会保障のあり様を、①民間保険会社や②消費者など「民の視点」から描写することによって、より立体的・動態的にとらえたいと考えたからである。特に、社会のデジタル化の進展、新型コロナウイルス禍によって、インシュアテックを擁する民間保険会社(民)の存在感は飛躍的に向上している。
中国社会保障の深層
習近平政権以降、中国の社会保障制度はモデルチェンジともいうべき、抜本的な変化をとげている。その背景には、これまでの経済成長や新型コロナによって、人々の生活におけるリスク保障が生活保障や医療へのアクセスといった基本的なものから、より健康に生活するためや長生きすることによって発生するリスク(長寿リスク)の保障など多様化しているからだ。
新たに出現したリスクへの対処は、本来であれば政府が社会保障制度を通じてカバーするのが主流であろう。しかし、中国がとった策は民間保険会社に社会保険を補完する商品を開発させ、新たに出現した生活上のリスクを間接的に保障する方法である。つまり、政府は直接コントロールする範囲を限定すると同時に、民間保険会社を通じて間接的にコントロールする範囲(給付・サービス)の拡大を果たす、という手法だ。つまり、これが中国でいう政府(官)と民間(民)の“連携”の強化である。
中国の社会保障制度は、公的制度からの給付を小さくとどめ、その代わりに民間保険やNPOの活動、家族・共同体などさまざまなリスク保障を幾重にも重ね(多層化)、ミックスする「福祉ミックス体制」を採用している。その意味において、民間保険会社の活用は原則に基づいた施策となる。しかし、民間保険会社・民間市場へは政府による強力な介入やコントロールがなされ、“連携”といっても政府と民間保険会社がそれぞれ独立したパートナー関係ではない点に留意が必要だ。
さらに興味深いのは、民間保険会社側も一方的な支配を受けているわけではない点だ。自社の利益を守るための条件闘争、地方政府(官)と民間保険会社(民)の関係性を自社の成長へつなげようとする水面下での攻防―“見えざる連携”がある。保険会社がこのような連携を維持している背景には、プラットフォーマーによる保険業界への進出がある。保険会社は、これまで経験したことがないような新たな「規模の経済」との競争に晒されるようになったからである。本書では上掲の「不均衡な連携」と「見えざる連携」を、地方政府と当地に進出した民間保険会社が協働で経営する三つの医療保険―小額保険、大病医療保険、恵民保から探る。
プラットフォーマーの保険業界進出でもたらされたのは、手続きやサービスのオンライン化といった消費者の利便性向上にとどまらない。プラットフォーマーがそれこそ「規模の経済」を活用して急速に普及をはかったのが「ネット互助プラン」である。
このネット互助プランは、オンライン上の相互扶助スキームで、癌や慢性病などにかかった場合に給付される医療保障の商品である。保険商品と異なる点は、加入対象者は運営側が選出し、加入に際して費用がかからず、給付は加入者が割り勘で支払うため費用が低く抑えられる点にあった。つまり、デジタル化によって生み出された新たなリスク保障商品である。本書では消費者の視点として、リスク保障のニーズをこのネット互助プランを通じて探る。政府がリスク保障の多層化を進める中で、新たに出現したネット互助プランは、公的医療保険、民間保険に次いで最も基礎的なリスク保障としての位置づけを獲得できたのか。
現在の習近平政権は、経済成長の減速、少子高齢化の進展によって、経済と社会が転換期を迎える時期に政権を引き継いだ。それゆえ、社会保障制度を支える生産年齢人口の減少に直面しながら、低成長による国の収入の鈍化を意識せざるを得ない状況にあった。既存の社会保障も高齢化の影響を受けて費用が増大する。習近平政権において官民協働保険の強化や民間保険のさらなる活用が進められる背景には、単にデジタル化の進展のみならず、国が抱える諸課題のバランスを総合的に考慮しながら社会保障制度の改革を進める必要に迫られているからだ。
本書では、中国独自の制度がどのようなものなのか、また、その独自性ゆえどのような課題を内包しているのか、どう持続可能なものにしようとしているのか、中国の社会保障制度の深層を読者の皆様と共有できればと考えている。
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