【試し読み】エーコ『薔薇の名前』 知の巨人が仕掛けた世界の断片とは?!
記号論の大家ウンベルト・エーコによる大ベストセラー『薔薇の名前』。
そんな『薔薇の名前』に何度も挫折してしまう…。中世ヨーロッパの世界にリアリティがもてない…。本書『世界を読み解く一冊の本 エーコ『薔薇の名前——迷宮をめぐる〈はてしない物語〉』は、担当編集のそんな悩みから始まったものでした。険しい山道を登るには、ガイドが必要です。その役を買って出てくれたのが、中世ヨーロッパ史の専門家である、著者の図師宣忠先生でした。政治情勢、修道院、異端審問、建築から、はては眼鏡に至るまで、『薔薇の名前』の前提知識となるディテールをつぶさに解説していきます。
このnoteページでは、そんな「ディテール」の一部である、「写字室と写本」について紹介します。『薔薇の名前』での写字室は、有名な「笑い」に関する議論が繰り広げられたのを始めとして、何度も登場する重要な場所です。そこは、実際にはどんな空間だったのか、そして中世の本である「写本」とは何か――。エーコが仕掛けた世界の断片を、ぜひご覧ください。
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写字室と写本の製作
中世前期には、修道士が膨大な時間と労力をかけて羊皮紙に筆写して彩色を施した写本は稀少で豪華な工芸品であった。高価な食器などと並び修道院の経済的な資産だったのだ。一方で、書物は修道院にとって贅沢な調度品という価値を持つと同時に、若い修道士への教育のため、説教を行うため、聖書研究を進めるために必要不可欠な道具でもあった。アッボーネが夢見心地に引用する。
〈書物ナキ僧院ハ〉……〈サナガラ富ナキ都市、軍勢ナキ城、用具ナキ厨房、料理ナキ食卓、草木ナキ庭園、花ナキ野辺、枝葉ナキ樹木デアル〉(第1日3時課)(上・62頁)。
文書庫(アルマーリア)の蔵書数を誇る言葉として述べられたものだが、修道院にとって写本がいかに重要であるかが示されている。じつは、この章句は、『キリストに倣いて』を著したとされる神秘思想家で聖アウグスティノ会の修道士トマス・ア・ケンピス(1380頃〜1471年)から採られている。エーコは100年ほど先取りしたセリフを修道院長に語らせているのだ。
ところで、第Ⅰ章で見た最古の修道院平面図である「ザンクト・ガレン修道院図」では、写字室は修道院内で最も聖なる場所である聖堂内陣の、聖ガルスの北側に配置されている。
図版 ザンクト・ガレン修道院図(吹き出し部分は著者によるもの。
出典:St. Gallen, Stiftsbibliothek, Cod. Sang. 1092: Plan of Saint Gall)(https://www.e-codices.unifr.ch/en/list/one/csg/1092)
修道院の理想型としてのこの平面図には書き込まれていないが、実際の修道院では、修道士の寝室の下に暖房室が置かれ、その暖房室のそばに写字室が置かれることがあった。羊皮紙を柔らかくし、かじかんだ写字生の指を温めるための設備である。温度や湿度によって伸縮・変質してしまう羊皮紙という素材の特性上、写字室自体を暖めることは禁じられていた。
老齢のアドソも最後に述べていた。「写字室の中は冷えきっていて、親指が痛む」(下・383頁)と。実際、写字室の湿気と寒さで指がかじかみ、高齢ともなると手が震えていたことだろう。字を書く際の苦労を10世紀の書記フロレンティウスが述べる。
文字を書くすべを知らぬ者は、それがいかに苦痛を伴うかわからぬだろう。詳しく聞いてみたいというなら、教えてやろう、この仕事がどれほどつらいかを。目はかすみ、背は曲がり、あばらと腹はつぶれ、腎臓が悲鳴を上げる。こうして全身が痛むのだ。
羊皮紙の上に「ペン(penna)」で書き込まれる規則正しく軽快な文字の優雅さは、こうした「苦痛(poena)」の果てに醸し出されたものだったのである。
ザンクト・ガレンの平面図では、写字室には六枚の大窓の下に机が7つ、さらに部屋の中央に机が一つ配置されている。書くために必要な明るさは確保され、7人の写字生が働くことになっているが、実際にはもっと多くの写字生が写字室で仕事をしていたようだ。史料によれば、一つの写字室で働く写字生の人数は60人に及ぶこともあった。
『薔薇の名前』の「異形の建物」は、1階の西半分が厨房、東半分が大食堂になっていて、東塔に2階の写字室へ通じる螺旋階段が収められている。「古文書学僧、写字生、写本装飾家、その他諸もろの学僧たちが、それぞれに仕事机に向か」う写字室は、40の窓を持つ明るい光にあふれた広大な部屋として描かれる。
滴り落ちてくる光の粒があたりに散乱するさまは、まさに光に象られた精神の原理〈輝キ(クラリタース)〉を思わせ、これこそはすべての美と知の源泉であって、この大広間が表わす調和の精神と不可分のものであった。なぜなら3つのものが寄り集まって、美を形成するからである。すなわち、第一に全体性もしくは完全性があって、これゆえに不完全なものは醜いとみなされる。第二に正当な均衡もしくは調和がある。第三に輝きや光があって、現に澄んだ色のものは美しいと呼ばれる(第1日9時課の後)(上・120頁)。
写字室が美と結びつけられて描写されるこの箇所は、エーコが卒業論文をもとにした『トマス・アクィナスにおける美学問題』において議論しているテーマに関連している。つまり、トマス・アクィナスが『神学大全』(I・39・8)で挙げた美に必要な3つのもの(第一に十全性もしくは完全性、第二に適当な比例もしくは諧和、第三に光輝)に対応している。
写字室の様子について、さらに『薔薇の名前』の描写を見てみよう。
どの机にも細密画や筆写のために必要な道具類が備えつけてあった。角製のインク壺、薄い刃で削りながら使う細い羽ペン、羊皮紙を滑らかにするために使う軽石、文字を揃えて書くために引く基線用の定規などである。写字生が腰をおろして向かう机の面は傾斜していて、そのはずれに書見台があり、筆写すべき原本が立てかけられて、開いたページには筆写中の行だけを示す仮面枠が乗せてあった。写字生たちのなかには金色のインクやその他さまざまな色彩のインクを使う者がいた。また、古文書を黙読しているだけの者や、自分たちのノートや小板にメモを記している者がいた(第1日9時課の後)(上・121頁)。
羊皮紙、インク・絵具、羽ペンなどの材料の調達に始まり、本が出来上がるまでの写本製作の工程についてはクラウディア・ブリンカー・フォン・デア・ハイデの『写本の文化誌』に詳しい。修道院の写字室では、羊皮紙と筆写道具など材料が分配され、修道士一人一人に仕事があてがわれた。長いテクストを扱う場合、複数の修道士が共同で担当した。修行中の若い修道士は、補佐として羊皮紙の研磨を担当したり、絵具やインクを用意したりする。写字生は与えられたテクストの文言を変えてはならず、仕事中にしゃべってはならないとされた。写字室では、羽ペンが羊皮紙にきしる音、羊皮紙が擦れる音、写字生が筆写しながら文言をつぶやく音がときおり聞こえるのみ。瞑想と静寂の仕事場であることが理想であった。
写字生が筆写を終えたのち、写本装飾家が写本にさまざまな挿絵を描き込んでいく。
図版 イニシアル「R」の中で挿絵を描く彩色画家Rufillus(12 世紀)
出典:Cologny, Fondation Martin Bodmer, Cod. Bodmer 127: Passionary of Weissenau(http : //www.e-codices.unifr.ch/en/list/one/fmb/cb-0127), fol. 244r.
『薔薇の名前』では、アデルモの手になる詩篇読本の余白に「逆立ちした宇宙についての虚偽の物語」が展開している。
野兎の前で逃げ出した猟犬、獅子を追ってゆく牡鹿……小さな頭に足を生やした小鳥、背中に人間の手が生えた動物、豊かな髪の毛のあいだから突き出た足……背中に膜状の羽をつけて鳥に似た姿のセイレーン……翼を生やした魚、魚の尻尾をつけた鳥…… 蜥蜴(とかげ)と蜻蛉(とんぼ)の合いの子みたいな双頭の怪獣、ケンタウロス……(上・128頁)。
修道院の写字室で製作されていたのは、聖書、教父の著作、典礼本、詩篇などが主であったが、マイケル・カミールが『周縁のイメージ』の中で紹介するように、こうした写本の余白には実際にケンタウロスやセイレーン、「授乳の聖母」をパロディ化した猿に乳を飲ませる淫らな尼僧、巨大な蝸牛(かたつむり)と戦う騎士などのモティーフが描き込まれた。挿絵画家は写本の周縁部において、規範に対して抵抗したり、滑稽化したり、覆したり、転倒したりと、まさにホルヘによって批判された「さかさまの世界」が現出していたのである。
写字室の管理者である司書(アルマリウス)は、本を保管し、目録を作り、修繕し、貸し出す役目を負う。司書は、借出者の名前と本のタイトルを慎重に記録した。担保も取った。特に貴重な写本の場合、修道院長の許可を得なければならなかった。『薔薇の名前』では、マラキーアの説明によれば、文書庫の蔵書の閲覧を希望する修道僧はまず書物の題名を図書館長へ申し出て、閲覧の意図が正当かつ敬虔なものであると判断された場合にのみ、上の階の文書庫へ館長がそれを探しに行くことになっていた。ただし、『薔薇の名前』の修道院には、夜中に文書庫に忍び込もうとする者がいて、そうした侵入者を阻むため、文書庫の吊り香炉には幻覚を惹き起こすような薬草が焚かれていたのだった。
(この続きは本文で……)
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【著者プロフィール】
図師 宣忠(ずし のぶただ)
近畿大学文芸学部准教授。専門は、西洋中世史。京都大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。近著に、『はじめて学ぶフランスの歴史と文化』(共著、ミネルヴァ書房、2020年)、『魅惑の〈中世映画〉──西洋中世学からのアプローチ』(編著、羽鳥書店、近刊)などがある。
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