「己の決断を尊べ」 小菊捷人(商4・慶應湘南藤沢)
こんにちは!!
兼口から紹介いただきました、商学部4年の小菊捷人です。
引退してから約4ヶ月が経ち、卒論も無事書き終え、引退ライフ絶賛満喫中です。先日までロサンゼルスとプーケットにおり、現役さながらの肌の黒さをキープしています(日本寒すぎるので国外逃亡したいです)。また、旅行、スノボ、飲み会に加え、最近はゴルフやサッカー観戦といった新たな趣味を見つけ、毎日が充実しております。学生生活残すところあと2ヶ月なので、悔いのないように遊びの限りを尽くしたいと思います。
「4年生卒業ブログ」ということで、私の軟式野球部の4年間を学年別に振り返っていきたいと思います。「拙文にお付き合いください」のような謙遜テンプレは苦手なので、早速本題に入らせていただきます。
【1年生】
SFC高男子バレー部で納得の行く結果を残せた私は、大学入学当初は體育會への入部はほとんど考えておらず、「スポーツ系サークルを兼サーしようかなぁ」くらいのつもりでいました。しかし中学時代の軟式野球部でまともに試合に出ることができず、大好きな野球にこのまま未練を残したくないという思い、そしてどうせやるなら本格的な環境に身を置きたいという思いから、體育會軟式野球部への入部を決意しました。また、高校時代休み時間にグラウンドでお遊び野球をしていた同期の諸星の存在も、入部の際かなり大きな要因の1つでした。
入部したはいいものの、中学ではろくに練習もせず、高校はバレーボールに励んでいた私には大きなハンデがありました。しかし試合に出て活躍したいという目標を持って入部したからには、どうにかその壁を乗り越えてやろうと意気込んでいました。ブランクがありながらもご活躍されている先輩方を見て、自分も4年間真面目に練習すれば最終学年には試合に出れるだろうという、今考えると非常に甘い算段でいました。
1年生で1番記憶に残っているのは「地獄の荷物持ち」です。私たちの同期は元々人数が少なく、練習や試合のたびに理不尽という言葉では片付けられないほどの荷物(Ex: バットケース+ボール、キャド×2、テント)を運んでいました。荷物持ちが嫌で部活を辞めた同期もいるほど大変で、正直二度と戻りたくないです。それに加え、2回粗相をしたら〇〇(罰則)という制度があり、毎晩遅刻に怯えながら眠りについていました。
また、今まで伸び伸びとした自由な環境で育ってきた影響かもしれませんが、礼儀作法、言葉遣い、態度などの部分でたくさん失敗し、成長できた1年間でした。このように1年生時代は、野球の内容より「體育會」という組織に関する記憶が印象深く残っております。
【2年生】
軟式野球部の4年間で辛い経験は山ほどありましたが、2年生が圧倒的にしんどかった覚えがあります。今だから言えますが毎日のように部活を辞めたいと思っていました。その要因は大きく2つありました。
1つ目は、技術面、経験面で大きな壁にぶち当たったことです。運動神経は悪い方ではない自負があり、毎日練習していたらそろそろ上達するだろうと勝手に思っていましたが、大きな間違いでした。大学軟式野球は決して甘くなく、練習メニュー1つとっても考えてプレーしなければ全くと言っていいほど身になりませんでした。また、経験不足が露呈するケース練習が大の苦手でした。何度カットプレーや走塁ミスをして某N村先輩に叱られたかわかりません(おかげさまでメンタルが強化されました、感謝しております)。このように「自分が思ったよりできない」という理想と現実の乖離から、辛い日々を送っていたのを覚えております。
2つ目は、そもそも練習機会をほとんど頂けなかったことです。2年生になった瞬間コロナが猛威を振るい、4〜6月はまともに練習ができませんでした。緊急事態宣言が解除され8月に入り練習が再開すると、秋リーグに向けて練習メンバーが絞られました。私はそのメンバーに入れずケースノックのランナーやサポートを行っており、冗談抜きで毎日アップとキャッチボールをしに練習に行っていました。時間を見つけて自主練はしていましたが、グラウンドでの練習機会が少ないため上達するはずもなく、何の為に部活に行っているのかわからなくなっていました。
そんな中迎えた秋リーグ戦では見事優勝を果たし、少し報われた気分になりました。それと同時に、スタンドからその様子を見ていた私は、次は絶対にベンチ入りしてチームに貢献し、優勝の喜びをグラウンドで分かち合いたいと強く思いました。
P.S. 広報局で新歓活動を担当し、史上初のオンライン新歓ということで様々な困難がありましたが、最高の後輩たちを迎えることができとてもいい経験でした。
【3年生】
3年生で1番印象に残っている出来事はやはり全日本大会です。4年間で最も記憶に残っているのもこの全日本大会かもしれません。
伸び悩む自分自身、そしてチームの優勝をグラウンドでともにできなかった悔しさを胸にスタートした3年生は、私にとって大きなターニングポイントでした。
どうやったらベンチ入りできるのかを考え抜いた結果、短期目標として「ベンチワークでチームに必要な存在になる」ことを目指しました。練習中はもちろん、練習試合などのアピールできる場面で積極的に声出しを行いました。その結果、春リーグでは声出し要員として何度かベンチ入りを経験させていただきました。この春リーグでは何度も大逆転劇を重ね、優勝には届かなかったものの2位で終えることができました。そして迎えた関東ブロック大会では激闘を潜り抜け、見事に全日本大会への切符を掴むことができました。あの町田球場での決勝戦後の歓喜は一生忘れられません。
そしてベンチワークを評価していただき、全日本大会のメンバーとして長野に帯同する事ができました。細かい振り返りは省略しますが、全日本大会でも「逆転の慶應」を遺憾無く発揮し、全国3位という華々しい結果を残すことができました。そして自分自身もベンチワークや声出しでチームの勝利にわずかながら貢献し、グラウンドで皆と勝利を分かち合うことができ、前年度の悔しい思いを吹っ切ることができました。当時監督、コーチであった田中さんと平野さんから頂いた「小菊の声出しには何度も救われた」という言葉は今でも忘れられません。
また、もう1つの大きなターニングポイントとなったのは外野へのコンバートです。より自分の強みである脚力と肩を活かすため、そして内野手の競争が熾烈であった現状を踏まえ、首脳陣や同期と相談した結果、夏から外野手に転向しました。それまで外野手はほとんど経験したことがなかったため0からのスタートでしたが、磯田さんや内藤さんを初め、当時の外野手の先輩方にご指導いただき、おかげさまで少しずつ上達することができました。こんな私にたくさんアドバイスをくださり、ありがとうございました。
【4年生】
4年生は、人生で1番野球と真剣に向き合った1年間でした。ついに最高学年として、自分たちがチームを引っ張る立場となりました。人数の少ない私たちはその分1人1人のウェイトが大きく、皆それぞれチームにとって重要な役割を担っておりました。私自身は外野手チーフとして外野の統括、練習メニューの考案等を担当しました。しかし外野コンバートから半年も経たずチーフとなった私は、自分よりも上手い後輩達をどのようにまとめ、指導すればよいのか全くわかりませんでした。ましてや外野手として技術、経験ともに未熟な私の話に説得力などあるはずもありませんでした。
そこで私はまず自分の技術力を向上することにフォーカスし、外野守備だけは誰よりも練習すると決意しました。指導してくださっていた先輩方も卒業してしまったため、YouTubeなどで研究を重ね練習で実践し、首脳陣や後輩たちにアドバイスを求めました。また、他人を指摘することで自分のプレーも引き締まるという相乗効果もあり、だんだん外野守備に自信が持てるようになりました。
自分の技術力の向上を図った次は、外野手チーフとして鉄壁の外野陣を形成するためにはどうすれば良いかを日々模索しました。同じく外野手チーフであった小川と課題や練習メニューを考え、練習や試合で試行錯誤を重ねました。その結果、春は守備のミスが目立つ外野陣でしたが、秋は攻守ともに自慢の外野陣を形成することができました。
自分自身としては、当然レギュラーを目指しながらも、試合出場のために自分の武器を磨くことに専念しました。特に外野守備、走塁、叩きに対しては高い意識を持って練習に取り組みましたが、実践の場面でアピールが足りずレギュラーを掴むことはできませんでした。それでも秋リーグでは守備固めや代走としてチームに貢献することができ、スタメンも経験することができました。最終戦では宿敵法政に打ち勝ち、中学時代から憧れていた「應援指導部の前で慶應のユニフォームを着てプレーする」という夢も叶い、悔いのない引退となりました。
以上、私の軟式野球部での4年間の振り返りでした。簡潔にまとめるはずが、書き進めるにつれて思いが募り、大変長くなってしまいました。申し訳ございません。
そして最後に、私が4年間満足のいく活動ができたのは、ご支援してくださったOB・OGの皆様、力強い應援で勇気をくださった應援指導部の皆様、野球や礼儀作法をご指導いただいた先輩方、どんな時も味方でいてくれた頼れる同期、こんな私を慕ってくれた後輩達、そしてサポートしてくれた両親のおかげです。この場をお借りして感謝申し上げます。おかげさまで「己の決断を尊ぶ」ことができました。
この部を選んだ大学1年生の自分、そして学業、ゼミ、バイト、就活、遊びetc.と両立しながら4年間走り抜けた自分にも大きな拍手を送りたいです。
次回のブログは、我らが高崎の壁、〇〇ー(新倉悠平)が担当します。入部当時は溢れでるチーズ臭が隠しきれませんでしたが、最終学年ではすっかり垢抜けて立派な捕手、学生ヘッドとしてチームを牽引してくれました。そんな彼が何を語るのか、ぜひお楽しみに!!
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