あとちょっと一緒に走りたいな。
きつくてやめたいはずの練習中、ふいにそんなことを思ったのは雨のふりしきる今年の5月1日。
練習メニューは5000×3本、設定はなんと15分切り。
関カレ前最後の大事な練習。
出走者はハーフ組の田島さん、東、瑞のたった3人。
できるわけない、憂鬱な気持ちだった。
UP前に突然、瑞が別メニューに変更になった。
ついに田島さんと2人きりで練習をするチャンスを掴んだ。
普通は人数が多い方が引っ張りを分担ができるので嬉しい。
でもこの日だけは違った。
「田島さんと2人で走れる!」
一気に気分があがった。
田島さんのことを知ったのは高校1年生の冬だった。
当時まだまだ弱小だった出水中央高校駅伝部。
練習の後はいつも競技場の近くのファミマで、おでんかアイスを買って夜遅くまで話をしていた。
内容は「〇〇高校はどんな練習してるらしい」のような中身のあるものから「〇〇さんの彼女は可愛いらしい」と言ったゴシップまで、とにかく陸上のことならなんでも良かった。
弱いけど陸上のことが大好きなヤツが集まっているチームだった。
いつものように話してると急にその時は来た
「九学で都大路の5区走った田島って人元吹奏楽部らしいよ」
「嘘やろ」
今となっては有名な話だが、当時そんなこと信じられるわけない。
サッカー、バスケなら分かる。でも吹奏楽部男子って….
その話を聞いた直後
偶然、同じレースに出場した。
この時は特に意識していたわけではない、でもスタートリストに名前を見つけたことは鮮明に覚えている。
僕も1年生ながら善戦したものの、10kmで1分差を付けられ敗北。
奥球磨ロードレースで4位に入賞する勝負強さ。
バックグラウンド込みで面白い選手だなと思って、それから結果を追っかけるようになった。
僕の中でのハイライトは
・エガスタで2度目の直接対決。田島さん14’28、僕14’55で敗北。
・ニュース番組で放送された溝上主将との感動エピソード
・都大路3区で先頭を走る
気づいたら直接話した事もないのに完全にファンになっていた。
2002年生まれ、いわゆる02世代は鹿児島に徳丸寛太、野村昭夢。九州で見ると熊本に鶴川正也、福岡に太田蒼生と豪華な面々が揃っているが、それでも僕のスターは田島公太郎だった。
そんなスターは慶應義塾大学に進学。
しかも入学してすぐの関東インカレハーフで大健闘。
やっぱ規格外だなあ、なんて思ってた矢先まさかの僕にも慶應からスカウトが。
それと同時に一方的にフォローしてたスターからやって来た、1件のフォローリクエストとDM。
悩める少年の心は完全に慶應受験に傾いた。
当時の僕はまるで、芥川龍之介に憧れた太宰治のようだった。
彼が芥川賞の候補に選ばれた時と同じように
「命うれしくといふ言葉がふいと浮かんで来ました」という気分になった。
それからはあっという間だった。(詳細はこちらから)
もちろん部活をしながらの受験対策の日々は大変だったけれど、入学後一緒に練習できる日を想像し、zoomで一緒に試行錯誤する日々は楽しかった。
一緒に掴んだ合格。
田島部屋に入寮することも決まった。嬉しさ半分、緊張半分。
話題作りの為にその日から、椎名林檎・東京事変を狂ったように聞いた。
それから約3年。
何回もご飯に連れて行ってもらった。
色んなことを教えてもらった。
合宿や遠征で同じ部屋になる事が多かった。
たくさんいじられた。
独特な感性は理解できない時もあった。
辛くて弱音を吐いてる姿も見た。
何度も叱られた、たまに言い過ぎじゃないかと腹が立った事もあった。
東京マラソンを応援している時気づいたら泣いていた。
今でも僕のスターは田島公太郎だ。
予選会まで残り2週間。
下手すれば残り2週間で一緒に走れる日々は終わる。
あとちょっと一緒に走りたいな。という気持ちを今もまた、感じている。
あと2週間じゃ少し短すぎる。
走れカナム