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はじめまして。
私は、森下 恵王(もりした けいおう)と申します。
宮崎県立正寺(日蓮宗)の副住職をしています。

肩書・経歴

noteを始めるにあたって、自己紹介を書きたいと思いますが、小さな肩書きも含めて、ここに私の経歴・肩書きを書けるだけ書きたいと思います。

宮崎県宮崎市 身延山宮崎別院立正寺 副住職
日蓮宗宗務院 職員(令和元年12月まで)
日蓮宗現代宗教研究所 所員(令和元年12月まで)、同研究所研究員(令和2年4月から)
○全国日蓮宗青年会 行学道場担当委員長
○社会教導師(宮崎・鹿児島・沖縄管区)
寺院活性化研究会 幹事
仏教死生観研究会 会計
○死の体験旅行 講師
自死・自殺に向き合う僧侶の会 会員

仏教関連で言えばこんなところでしょうか。
順不同で書きました。そして、肩書き同士が連動しているものもあるため、見る人が見れば重複して書いているような内容もあるかと思います。
もし何か増えれば更新しておきます。

というより、学生時代に資格収集みたいなことをしていたり、今も様々な団体に顔を出しがちなので、仏教以外も含めれば他にも結構ある気がします。これからも肩書きばかり増えそう。


生い立ち

幼少期
昭和62年、宮崎県宮崎市生まれ。
実家がお寺であったため、幼少期から、お寺の行事などを間近に見ながら育ちました。
「いつかはこのお寺を自分が継ぐのだろうな」と、漠然とした思いは小さい頃から持っていました。そして、小さい頃からお寺の行事に出たりすることはあったので、お経を覚えていたりはしたのですが、まだ実感としては薄かったような気がします。
自発的にやっている感じではなかったというか。
色々ありましたが、かなり自由に育てていただきました。

法学部時代
時は過ぎ、18歳。
日蓮宗の教師(僧侶)になるには、東京にある立正大学か、山梨にある身延山大学に通うのがスタンダード?ではあるのですが(この辺りは深堀りすると長くなりそうなので、別の記事で書けたらと思います)、ストレートに行くのではなく、何か他のことを勉強してから、僧侶の道に入りたいと考えるようになり、紆余曲折あって、上京して中央大学の法学部というところに所属することになりました。

やるなら文系だと思ってはいたのですが、法学部というのは思った以上にスパルタでした。
総論的な勉強はもちろんですが、条文・判例解釈→それについてレポート・小論文の作成の連続。。。
最初は不慣れなことも多かったですが、緻密な文章を書くということに長けた先生方に多く出会い、徐々に訓練されてきたというか、だんだん文章を書くのにこなれてきて、何も理解していなくてもそれなりの文章が書けるという技術を会得しました(ある種事実なのですが、こう書くとダメですね)。

最後の頃に「大人の文章を書くようになった」と言われて少し嬉しかったような記憶があります。

立正大学編入
そんなことで、中央大学を卒業し、いったん就職なんてことも考えたのですが、一先ず、日蓮宗教師になるため、立正大学に編入学することにしました。

同じ文系かと思いきや、立正大学で習う日蓮教学というのがまたベクトルが変わってなかなか大変でした。というより今も大変です。

しかし、立正大学では大学2つ目ということもあり、かなり社交的に過ごしました。今でも同業の方が多いので、その頃の関係が生きています。
バイタリティあふれる方々との交流で影響されて、何か気になる場所があればとりあえず行ってみる、的なフィールドワークをするようになりました。

在学中、大きな出来事がいくつかありましたが、一つは国外研修の授業でインドに行き、八大仏蹟全てをまわったこと。

もう一つは、日蓮宗教師になる修行、信行道場に入ったことです(これも一つのトピックになりそうなので、別の機会に)。

そんなことで、日蓮宗教師になった私は、立正大学の卒業に際し、宮崎のお寺に帰るかどうかという選択に迫られました。

現代宗教研究所へ
そんな選択に迫られた頃、ある友人から「日蓮宗宗務院」という組織が職員募集しているとの話を耳にします。

お寺と関係のない一般職への就職も考えて、説明会だとかにも行っていたのですが、考えたら、お寺と関係のある職場というのも、関係知識が得られて面白いのかな、と考えるようになりました。

そんなこんなで、日蓮宗宗務院の面接を受けました。
筆記試験(主に教学問題)と面接試験があり、中大時代に培った文章作成スキルと、一応立正大学新卒?(編入学卒業)の新しい記憶を武器に、筆記試験の行が埋まりきるまで書きました。

面接では、採用前提の雰囲気でしたが、「うち、給与少ないですよ」と、ちょっと予想外のことを言われて、なぜか口をついて出たのが「存じ上げております」で、横の課長さんがクスッと笑っていたのが鮮明に記憶に残っています。

ほどなくして、採用通知をいただき、4月から新人研修を受け、そんな中で、いくつかの部署があるため、「どこの部署に入りたい?」と聞かれ、「入れていただけるならどこの部署でも勉強させていただきます」なんて答え方をしました。

そうして、所属先として発表されたのが「現代宗教研究所」でした。
研究所なのに、一部署扱いというのが不思議でしたが、まあその辺りも歴史があるので別の機会に。

現代宗教研究所の細かい話は、ここには書ききれないので、また書けたらと思いますが、地下の一室にある研究所でした。

私が入った頃は、人が多く、上司や多くの先輩方から色々教えてもらいました。当初は何もわからない状態で困ることもありましたが、専用の書庫もあり、そこの整理など地道に仕事をしていく楽しさもありました。調べ物や調査・シンポジウム・セミナーに関わる機会も多く、情報量は高い職場でした。

苦境の中で
ただ、退所する先輩がいたり、加えて人事異動の多い職場でした。
その割に所員の補充はあまりなされなかったので、同僚がどんどんいなくなる職場でした。

何年か経ち、苦境というのは重なるもので、研究所のそれぞれの方に様々な事情があり、多くの方が出勤していない状況になったことがありました。
その頃の研究所は特に機能不全を起こしていたと思います。

一番究極な状態の頃は、先輩の一人と私しか出勤しない、なんて日が多く続き、毎日のようにその先輩と「あれはどうする?これはどうする?」なんて打合せを繰り返していました。

なんでこんな話を書いたかというと、その辺りから、おそらくインプットばかりだった私がアウトプットを繰り返した関係で、何か「視界が開けた」ように思います。
5年近く、新しく後輩が入らず、研究所内でずっと一番下で勤めていたのも、ある種、自分の中で物事を整理する環境が作られました。

そして、研究所に8年間在籍する中で、一番の恩恵がそのインプットの多さです。
事務方仕事が多いので、調査・研究・セミナー等の会議の運営、研究論文の校正までして、かなりの情報量でした。

加えて、私は話し上手ではないのですが、人の話を苦なく聞けるので、いつでも研究所に在籍する方々、様々な形で関わる方々の「思いを聞く」ことを心がけていました。なるべく多くの方に話しかけるようにしましたし、初めてお会いするような方とでも日が変わるまでお話をしたりもしました。

そんなことで、多くのインプットがあった研究所時代を8年ほど過ごしました。

その中で、私の環境を変えた要因に、「未来の住職塾」の存在もあるのですが、これは長くなるので(ここまでで既に長いですが)、詳しくは次の機会に。とにかく多くの出会いがありました。

帰省~自坊での取り組みを始める
そんなことで多くの学びがあった研究所を令和元年12月に退職し、現在、宮崎県のお寺に戻ってきました。
お勤めをしながら、徐々に準備をして、コロナのことで大変な中、3月までを準備期間として、色々と取り組みを始めようというところです。

note、はじめました。

長くなりました。
noteを始めた理由。

それは、私が勤める「立正寺」で、令和2年4月(本当に実働するのは5月)から、新たなプロジェクトを始めることになったからです。

新たなプロジェクトのことはあえて別の記事で書きたいと思いますが、プロジェクトを運営する上で、このnoteは、さまざまなSNSのまさにいいとこ取りをしたような(褒め言葉です)、ちょうどいい機能のプラットフォームであると感じました。

これからお寺でプロジェクトを進めるにあたって、そこに込めた思いなどを皆さんと共有するには、うってつけであるため、登録だけして放置していたこのnoteを起動しようと思い立った次第です。

まずは簡単な自己紹介をさせていただきました。
そんな経緯で、少しづつ、noteを書き進めて参りたいと思います。

どうぞ、宜しくお願い申し上げます。


森下 恵王 合掌
―――――――
身延山宮崎別院 立正寺 副住職
宮崎県宮崎市末広1-6-1
℡0985-27-1121

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