太平記を読まないか? Vol.3~巻1-③「中宮御入内の事」~
はじめに
こんにちは。前回までは、『太平記』巻1「後醍醐天皇武臣を亡ぼす御企ての事」を読み進めてきた。前回の節はどちらかと言えばこれまでの「あらすじ」のような文章だったが、今回は、帝の妻である中宮について述べられている。あまり長くは無いので、頑張って読み進めてゆこう。構成はいつもの通りである。
『太平記』巻1「中宮御入内の事」
[原文①]
文保二年八月十三日、後西園寺太政大臣実兼公の御女、后妃の位に備はつて、弘徽殿へ入らせ給ふ。この家に女御を立てられたる事、すでに五代、これも承久以後、相模守、代々西園寺の家を尊崇せしかば、一家の繁昌恰も天下の耳目を驚かせり。されば、君も関東の聞こえ宜しかるべしと思し召して、取り分け立后の御沙汰もありけるにや。
[現代語訳①]
1318(文保2)年8月3日、西園寺実兼公の娘君である後京極院禧子が、(後醍醐)帝の后になられて、弘徽殿へお住まいになった。この西園寺家から女御が(天皇へ)立てられる事は既に五代続いている。西園寺家は承久の乱以後、相模守=北条得宗家が代々西園寺家を尊崇していたので、西園寺家が栄達を極める事はまるで全ての人々を驚かせるほどであった。そうであるから、帝も関東からの評判が良いものであるだろうとお思いになって、格別に(西園寺家から)立后せよとの仰せもあったのだろうか。
[原文②]
御齢はすでに二八にして、金鶏障の下に冊かれて、玉楼殿の内に入り給へば、夭桃の春に傷める粧ひ、また垂柳の風を含める御形、毛嬙、西施も面を恥ぢ、絳樹、青琴も鏡を掩ふ程なれば、君の御覚えも定めて類ひあらじと覚えしに(※A)、君恩葉よりも薄かりしかば、一生空しく玉顔に近づかせ給はず、深宮の内に向かつて、春の日の暮れがたき事を歎き、秋の夜の長き恨みに沈ませ給ふ。金屋に人なくして(※B)、皎々たる残の燈の壁に背きたる影、薫籠に香消えて、蕭々たる暗き雨の窓を打つ声、物ごとに皆御涙を添ふる媒となれり。「人生まれて婦人の身と作ること勿かれ。百年の苦楽は他人に因る」と、白楽天が書きたりしも、理りなりと覚えたり。
[現代語訳②]
(禧子の)ご年齢はすでに十六歳になられていて、天上の金鶏を描いたついたての中で大切に育てられ、美しい宮殿に入内したので、若い桃の花が春を恥じらう風情、そしてしだれ柳が風を含んだような、柔らかく丸みのあるお姿は、数々の美女さえ恥じて顔を隠し、鏡を布で覆い隠してしまうほどの美しさであったので、帝から賜るご寵愛もこれまでに類を見ないほどであるだろうと思われていた(※A)。
しかし帝からのお情けは木の葉よりも薄かったので、生まれてから死ぬまで帝のお顔にお近づきになられず、奥まった御殿の中へ向かって、日の長い春の日々を歎き、秋の夜長に恨みの中へ沈みなさった。豪奢な邸宅に人は無く(※B)、清らかな燈籠の残り火に背を向けて壁へと伸びる影、香りがもう消えてしまった衣服に香を焚きしめる籠、もの寂しく暗い雨が窓を打つ音、それら一つ一つが涙を誘うものとなった。白居易が「人は女性の身に生まれてはならない。百年の苦しみや幸せが他人に左右されてしまうからだ」と記していた事も、道理があるように思われる。
[原文③]
その比、阿野中将公廉の女に、三位殿の御局と申しける女房、中宮の御方に候はれけるを、君一度御覧ぜられて、他に異なる御覚えありて、三千の寵愛一身にありしかば、六宮の粉黛は顔色なきが如くなり。惣て三夫人、九嬪、二十七の世婦、八十一の女御、および後宮の美人と云へども、天子、顧眄の御心を付けられず(※B)。ただ殊艶尤態の、独りよくこれを致すのみにあらず、蓋し善巧嬖妾、叡旨に先だつて奇を争ひしかば、花の下の春の遊び、月の前の秋の宴、駕すれば輦をともにし、幸すれば席を専らにし給ふ。
[現代語訳③]
そのころ、阿野中将公廉の娘に、中宮にお仕えしていた三位殿の御局(阿野廉子)と申し上げる女房を、帝が一度ご覧になられて、他の人よりも目をおかけになり、帝からのご寵愛を一身に(廉子が)受けたので、その意外な事態に後宮の数々の美人たちはどうすればよいか分からなくなり、顔色を失ったようであった。後宮にいるどのような身分の女性も、例え美しかったとしても帝からお目をかけられる事はなかった。ただ優れてあでやかなだけでは寵愛を一身に受ける事は難しく、言葉が巧みで(帝の)気に入りの妾らが、帝のお心に先立ってその美しさなどを争ったので、春の花見の宴席や、秋の月見の宴など、帝が輿にお乗りになれば同乗し、行幸があれば帝のそばを独占しなさった。
[原文④]
これより君王、朝政をし給はず(※B)。つひに准后の宣旨を下されしかば、人皆皇后元妃の思ひをなせり。忽ちに見る、光彩の始めて門戸に生れる事を。この時に天下の人、皆男を生める事を軽くして、女を生む事を重くせり(※B)。されば、御前の評定、雑訴の沙汰までも、准后の御口入とだに云ひてければ、上卿も忠なきに賞を与へ、奉行も理あるを非とせり。関雎は楽しんで淫せず、悲しんで傷らず、詩人採つて后妃の徳とす。傾城傾国の乱れ、今にありぬと覚えて、あさましかりし事どもなり。
[現代語訳④]
これによって、帝は政治を行わなくなりなさった。しまいには(廉子に対して)准后の宣旨をお下しになったので、人々は皆廉子を皇后のように扱った。(阿野氏)一門は、こうして瞬く間に繁栄していったのだ。これより後、誰もが男ではなく女の子どもが生まれる事を重視するようになった。そうであるから、帝の御前での合議や、各種訴訟の裁定までも、准后(廉子)のお口添えが...とさえ言えば、上級の貴族らは忠義の無い者にも恩賞を与え、奉行も道理があるのにそれを非法とした。ミサゴのつがいは楽しんでもほだれる事なく、悲しんでも度を越すことない。これをかつて詩人は后の徳として記した。今にも美女(廉子)が国を滅ぼしてしまいそうで、なんとも嘆かわしい事である。
[解説]
皆さんは「傾国の美女」という言葉を聞いたことがあるだろうか。楊貴妃や妲己などが知られている。文中で述べられている通り、君主などの傍にいて、あまりの美貌に夢中となり、ちっとも政治に身が入らなくなってしまって「国」が「傾」く…。そこまでの魅力をもった美女が、「傾国の美女」である。この阿野廉子もまさしく「傾国の美女」だとしているが、果たして国は傾くのか。今後に注目である。
なお、現在放映中の大河ドラマ「鎌倉殿の十三人」に登場する(というより、していた)源頼朝の弟、全成はこの阿野廉子の祖先である(全成の史実上の名は阿野全成)。のだが、学術的な根拠を今発見できない(苗字が同じである以上は何らかの関係があるのが殆ど確実だが…)ため、多分そうなんだろうくらいに思っていただけると良いだろう。学術的根拠を発見した場合には後の記事で追記しようと思う。
今回多くの※印を付したが、(※A)の部分は比喩表現である。直前で列挙されているのは皆古代中国の伝説上の美女であり、そうした人たちもきっと鏡を覆ってしまうほどの…という事だ。
また、(※B)と付したのも比喩表現、というよりは適切な表現や言い回しを別の文献(主に中国の文書で、この時代の貴族にとっては「教科書」とも言うべきもの)から引いてくる手法で、ここでは全て白居易の『長恨歌』が引用されている。楊貴妃が玄宗皇帝の寵愛を一身に受けて栄華を誇るのだが安禄山の戦いの最中に殺され、悲しむ帝の命令で蓬莱を訪れた方術士に彼女の霊が「比翼連理」の誓いを伝えるという叙事詩である。現在でもたまーに「比翼連理」という言葉を聞くが、これは『長恨歌』に基づくものなのである。楊貴妃は傾国の美女であり、彼女が栄華を極めてゆく過程の表現を多く引用したのだろうが、ストーリーを見る限りでは何とも示唆的だ…と感じる。この後どうなっていくのかは共に見て行こう。『長恨歌』はこの後もちょくちょく登場する。
さて、今回はここまでとしよう。巻1「中宮御入内の事」はこれで終わりであり、次回は次節を読んでいく。
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