太平記を読まないか? Vol.5~巻1-⑤「関東調伏の法行はるる事」~
[はじめに]
こんにちは。今回読むのは、「関東」を「調伏」しようとする帝=後醍醐天皇の企てについて書かれた節だ。構成はいつも通り、そして今回はかなり短めなので頑張って読んでいこう。
『太平記』巻1「関東調伏の法行はるる事」
[原文①]
元亨二年の春の比より、中宮御懐妊の御祈りとて、諸寺諸山の貴僧、高僧を召され、様々の大法、秘法を行はせらる。中にも、法勝寺の円観上人、小野の文観僧正二人は、別して勅を承りて、金闕に壇を構へ、玉体に近づき奉りて、肝胆を砕いてぞ祈られける。仏眼、金輪、五壇の法、一宿五返孔雀経、七仏薬師、烏瑟娑摩変成男子の法、五大虚空蔵、六観音、六字訶梨帝母、八字文殊、普賢延命、金剛童子の法なり。護摩の煙は内苑に満ち、振鈴の声は掖殿に響き、いかなる悪魔、怨霊なりとも、障碍なし難しとぞ見えたりける。
[現代語訳①]
元亨二年(1322年)の春ごろから、中宮がご懐妊なさるための祈祷をするという事で、各地の寺々の位が高い僧らに命じて、様々な密教の重要な修法・秘密の祈祷などを行わせた。中でも、法勝寺の僧円観上人、随心院の僧文観僧正の二人は、それぞれ特別に勅命を仰せつかって、皇居に修法の壇を造り、中宮のお体に近づきなさって懸命に、心を尽くして祈祷を行われた。中宮のお産に対して効果があるとされる各種様々な密教の修法を執り行った。焚かれた護摩木から立つ煙は宮中の庭に満ちて、僧が振る金剛鈴の音は後宮にまで響き、どのような悪魔・怨霊であっても、中宮のお産の邪魔など出来ないように思われた。
[原文②]
かやうに功を積み、日を重ねて、御祈りの精誠を尽くされけれども、三年まで御産の御事はなかりけり。後に子細を尋ぬれば、関東調伏のために、事を中宮の御産に寄せて、かやうに秘法を修せられけるとなり。
[現代語訳②]
このように功徳を積み、何日もかけて真心こめてご祈祷をなされたが、三年経ってもお産の事はなかった。後に(どうして効果が現れなかったのか)具体的に問い調べてみると、祈祷によって関東を降伏させるために、中宮のお産のための祈祷にかこつけて(調伏のための)秘法を執り行ったという事であった。
[解説]
最後の一文に簡単に「実は関東調伏のための祈祷してました」と書かれているが、これは大問題である。「調伏」とは、「敵意ある人を信服させ、障害を破ること。また、まじないなどによって、人をのろい殺すこと。(仏教語大辞典, 参照 2022-08-26)」という意味である。人で言うならば「呪い殺そう」としていたわけである。巻き込まれた中宮が可哀想でならない(中宮も承知の上かもしれないが)。元亨2年は、現代語訳の部分でも書いたように西暦で言えば1322年であるが、ほぼ100年前には承久の乱が起こり、後鳥羽上皇ら朝廷勢力が鎌倉幕府方に敗北している。恐らくそれは偶然だろうが、その100年の間に蓄積されたひずみが、このような形で発露され始めている事は今後の混乱を予測させるものである。
まだまだこの巻1はいわゆる「匂わせ」展開が多いが、それはつまりそれだけこの巻1に抑えておくべき点が多い事も意味する。「匂わせ」に気付くには様々な事を覚えておく必要があるのだ。
今回もう一点確認しておきたいのは、帝=後醍醐天皇から別命を受けてお産のための祈祷……もとい、関東調伏の法を修めていた二人の僧である。特に、円観上人は『太平記』の成立に深くかかわった人物とされ、今川了俊の記した『難太平記』という書物にも成立に関わった人物として名前が見られる。この恵鎮(そしてもう一人の僧 玄恵)、そして『太平記』の成立についてはいずれ別個に記事を書いていこうと思うので、興味のある方は更新次第読んでいただきたい(恐らく巻1終了後になるだろう)。
さて、今回はここまでにしよう。次回はまた次の節へと入っていく。それでは。
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