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中世の絵画と出会う~中に入る⁈

顧客の体験が重要、ってよく言われるようになった昨今。国立新美術館で行われているメトロポリタン美術館展(MET展)にいってきました。

美術館そのものが、新しい世界と出会う体験なわけですが、素晴らしい絵画だからといって、全部が全部印象に残ったり、価値観が変わる体験ができるわけではありません。では、なぜ美術館に行くのでしょう…?

美術館での体験

小さいときから絵が大好きで、1980年代に行ったエルミタージュ美術館展II(17世紀オランダ・フランドル絵画)で図録を買って、よくその絵の中に入り込んでいた記憶があります。大学は美学美術史専攻でしたので、知識としてはそこそこ持っていましたが、14世紀から15世紀にかけての宗教画に心を奪われたのは、1990年代初頭に訪れたフィレンツェのウフィツィ美術館でした。ジョットやシモーネ・マルティニ、フラ・アンジェリコ、フィリッポ・リッピなどが並ぶ部屋は明るく、作品からあふれる光に満ちていて、この上ない幸福感を体験したのでした。

この頃の背景を見ると、ゴシックからルネサンスに変わっていく中で、表情や身体の表現が変化していくのですが、古いものから解放されて新しい視点を得ていく過程が、とても興味深いです。もちろん、いつの時代にもそういう変化があって、ロマン主義の絵具の使い方、印象派の光の使い方、デュシャンに代表される価値観の破壊…それぞれ好きな方がいらっしゃるでしょう。私の場合は、その最初の「気づき」「驚き」がルネサンスでしたので、今でもその時代の絵画を見ると幸福感に包まれます。

今回のMET展では、フラ・アンジェリコの「キリストの磔刑」(上記写真*)と、フィリッポ・リッピの「玉座の聖母子と二人の天使」が来ていました。展示の冒頭の2枚だったので、私の目的はその2枚でほぼ完了したわけですが、改めて目の前にして、あの時と同じ幸せな追体験ができたのでした。
(* The European Masterpieces Timelineは写真撮影可)

フレームの中の体験

絵画は大抵四角いフレームの中に描かれます。観る人はそのフレームを窓のようにしてその先にある世界を眺めるわけです。窓から顔を出す(フレームの中に入る)と、そこには、「幸せ」や「戒め」、「好奇心」や「不安」があり、心を動かされます。

小さいころ、図録を見て、中に入り込んで楽しんでいたのは、まさにそんな感覚でした。今回のMET展でも、ピーテル・クラースの「髑髏と羽根ペンのある生物」が来ていて、エルミタージュ美術館展の図録の記憶がよみがえりました。髑髏は「死」を意味するもので、このころのオランダの静物画には、花と共に髑髏が書かれているものが多くあります。小さいころ、これがとても衝撃的で、花や果物に囲まれた髑髏に目を奪われてしまったのでした。死は経験したことなけど、明日死んでもいいように今を精一杯やろう、と思う最初の「戒め」になった気がしています。

そして、この絵に入り込む経験が、なんとMET展でエンタメとして提供されていました。写真を撮ると、ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの「女占い師」の絵の中の人物の顔が自分の顔に置き換わるというものです。

グッズ売り場にあったフェイスチェンジャー

面白い…。絵の世界に入っていくのは主観的に行うわけですが、それを客観的に見る体験ができるというわけで、これも一つの、新しい体験ですね。

「戒め」の体験

髑髏に目を奪われたのは、本能的な体験でした。西洋絵画には、様々な負のモチ―フがあります。髑髏、蛇、悪魔、怪物、ファム・ファタール… 私自身はキリスト教教育を中学以降受けてきましたが、信者ではないため、心の底から悪魔や黙示録を怖いと思ったことはなく育ちました。それでも、そういったモチーフには目を奪われ、気持ちがざわつきます。

昨日、国立新美術館のミュージアムショップで、こちらの本を見かけました。(山田五郎さんって、こんな本まで出してるんだ…)


白篇(天使とか)もあるのですが、黒篇が気になったので早速購入。黒篇は、悪魔、魔性、怪物、髑髏、横死の5つ。髑髏の意味「メメント・モリ(死を想え)」は「今を生きる」ということにつながる、ということも書いてありました。時折シニカルな山田五郎節も入っていて、面白いです。

次、気になっているのはポンペイ展。どんな発見があるかな。3月中には行きたいです。

(了)


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