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「1968年」スガ秀実氏著を読んで

日中戦争、太平洋戦争について大概の学生は学んで来なかったのと同様に学生運動に関しても知らないことが多いのではないだろうか。ノンポリだった私の呑気な疑問と感想と、あの時代をなきものにしたくないという著者の真摯な時代の証言が混ぜこぜになって、あの燃えるような時代を浮かび上がらせる、と思う。

尚、固有名詞は極力割愛しているので、活動家の名前、論拠となった書籍等は興味のある方はぜひこの本を手にとってほしい。目眩く半世紀前の世界が或いはその失敗がいまを作り上げていることに驚くと思う。

スガは「団塊の世代」などというローカルな呼び名で世界的な潮流をごまかすべきではない、と言っているようだ。確かに世界中の先進国の学生たちは「政治の季節」の中で熱に浮かされていた。

それが、日本の「新左翼」だけが血みどろの内輪揉めで没落していくのは国家権力とその手先の公安にやり込められたのか、日本の若者たちだけが負った宿痾だったのか、この本で明らかになるのだろうか?

当事者であるその視点はスガが経てきた1968年からの歳月によって多重的に論じられる。ある時は主観的にある時は突き放して客観的に。

そしてスガは1968年に世界の若者たちが世界革命を夢見たその世界観を以て、1968年以降の世界を世界革命の失敗として、私たちの戦後から世界の戦後を切り結ぶ。

石原慎太郎の「太陽の季節」を日本人としてのナルシスティックな自信の芽生えを内包していた、と批判しているが、大江健三郎までも、伊丹十三という六十年代サブカルチャーのカリスマに、高校生時代から薫陶を受けた存在、と歯に衣着せぬ批判を展開している。

そしてスガは1955年を「戦後」が確立する時期であると同時に、冷戦体制=「戦後」体制の終焉へといたる時代の始まりでもあった、という。その根拠としてスガは1956年のフルシチョフによるスターリン批判を挙げる。この批判はスターリン個人崇拝に関することがらにとどまらず、ソ連邦総体への懐疑を引き起こしたということだ。
しかも、このスターリン批判が行われたのと同じ年、ソ連邦は非スターリン化を求めるハンガリーに対して軍隊を出動させて武力で鎮圧した。これではスターリン批判とは何だったのかということになるだろう。

日本においても、このスターリン批判とハンガリー事件をきっかけに、後に「新左翼」と呼ばれることになる幾つかのグループが誕生した。⇒日本トロツキスト連盟結成。

話は飛ぶが、私は、このハンガリー事件を読みソ連邦の崩壊が三十数年後に起こったのと同じことが、ガザを救えなかった(救わなかった)西側諸国の崩壊が将来起こるのではないかと懸念する。ガザは西側諸国の自由・平等・博愛が偽物であった、或いは機能不全だということを暴き出したからである。
ある意味、それはアフリカ諸国では自明のことであった。だが衆目環視の下で虐殺を行い、それを西側諸国は止められなかった。イスラエルが西側諸国の一員だからという理由で。一年にわたり私たち世界市民は子どもの虐殺を目の当たりにし、犠牲者は四万人を越え、負傷者は数十万ともそれ以上とも言われる。
このことは、西側諸国の崩壊のトリガーとなり、既に現在BRICSが世界の覇権を手にしようとしている。グローバルサウスは静観しているが、強権政治のBRICSが失敗するとグローバルサウスは嘗ての西側諸国の理念を掲げて台頭する可能性がある。
その時、西側諸国には何が残っているのだろう。

引用:ブント(共産主義者同盟)のマニフェストは「全世界を獲得するために」と題されていたが、それはトロツキー的世界革命主義の表現である以上に、日本資本主義のナショナリズム=ナルシシズムの表現であったのだ。トロツキーの世界革命と日本資本主義(帝国主義)の世界性はここでは矛盾しない。そして、そのナショナリズム的な側面こそ、「国民的」と言われた六十年安保闘争において共感をえた当のものであるだろう。

一連のリベラリズム批判があり、石原慎太郎人気は穏健なリベラリズムに対する嫌悪だと言う。宮本顕治がリベラリズムからの切断を試みた第一次大戦後は、むしろリベラリズムが全面開花する時代であり、米ソはリベラリズム度を競い合っていた時代だった、という。
日本のニューレフトの創生期にあって、宮本顕治を否定することは、日本においてスターリン批判をすることに等しかったゆえに、その理論的確立のためには必ずなされねばならない作業だった。
日本の68年の核心的なスローガンは、「戦後民主主義批判」にあったはずだからだ。

引用:吉本隆明の「転向論」は、その意味で決定的な意味を持っていた。それは、スターリン批判をうけて、日本におけるスターリン主義政党(日本共産党)の頂点にある存在を否定し、なおかつ、スターリン主義には還元されない日本の知識人(中野重治)を見出すことで、その系譜に連なろうとするものであった。

(竹内好の)「民主か独裁か」という問いが発せられた時、「プロレタリア独裁」と答えるものが誰も――ブント=全学連でさえ、新左翼の知識人でさえ――いなかったところに、六十年安保闘争の決定的な限界があり…とスガは記している。
スガの言う「プロレタリア独裁」とはスターリニズムとは異なるものとしての言葉であろう。(この言葉は後ほどレーニンのものとして登場する)しかし、社会主義独裁に反対していた勢力が「プロレタリア独裁」は言い出しにくかったのではないか?また、言ったとして、一般人に理解されにくい言葉であったと思う。

引用:政治学者カール・シュミットが言うように、民主主義が全体主義的独裁の一種であり、最終的には全員一致を求め、それに収斂するものだとしたら、五五年体制とは民主主義の完成だったのである。

私は、五五年体制は戦後民主主義の完成だったかも知れないが、浅学ではありますが、民主主義が全体主義的独裁の一種だというのには反対意見を述べたい。
この場合、民主主義は多様な意見のやり取りによって合意形成されるものだが、トップが或いはトップを含めた会議で決まったことをトップダウンで大勢の構成員に強要する独裁体制と民主主義は明確に異なると思うのである。

引用:六十年安保闘争の後に解体し分裂していったブントのグループのなかに、後に「マルクス主義戦線派」と名のる小学習会グループが存在した。彼らは、安保闘争の「敗北」を総括するなかから、マルクス経済学者・宇野弘蔵の門下であるが、それを批判的に継承する岩田弘という新進の理論を見出すことになる。そして、この岩田理論が、日本の六八年の理論的な一つのバックグラウンドとなっていくのである。
それは、岩田理論が六十年代当時において幾多の揶揄や批判にさらされ、その批判が当時においても(もちろん、今なお)それなりに妥当であるとしても、そうなのである。
(中略)
ここで注意しておかなければならないのは、日本の新左翼の参照先が、ほとんどすべて日本人だということである。(ブントの採用した理論は主に3つ、黒田寛一、対馬忠行、宇野弘蔵であった)。
(中略)
おそらく、これもまた、日本の新左翼の「ナショナリズム」に規定されたものと言える。

私たちにとって新左翼とは内輪揉めの果てに仲間殺しをした「たわけ者たち」といった印象が強いが、人生をかけて、生命をかけて、意見を闘わせ、信念を守った彼らの言葉が語り継がれることがないのは、非常に口惜しいことだと思った。スガは中核派に近い人物だが、この年まで、彼らの言葉を聞かなかった罪滅ぼしにこの本を繙いていると言っても過言ではない。その上で、彼らを批判したいと思う。 (批判できるものならば)
あと、全学連、全共闘に多大な影響を与えた共産党は日本の近代史に大きな位置を占めていたんだなあ。近づいたり離れたりしながら影響を与え合っていたんだ。なかなかテレビのニュースで共産党の名前を見ることは少ないけれども。

引用: 六八年は「豊かさのなかの革命」と言える。すでに明大闘争の時代から、学費闘争がじつは「貧困」の問題ではなかったという歴史的視点が、当事者にあるということなのである。
それは闘争したいから闘争をするという「遊戯」と化しつつあったのだ。

羽田闘争や三里塚闘争等社会問題へのコミットはどう考えるか?スガの言うように「闘争のための闘争」で死ぬほどのリンチに遭った仲間にはなんと申し開きをするのか?桐野夏生の「夜の谷をいく」を読んで感じたことは、皆が幼いということだった。スガの言う「遊戯」だったという言葉がこれほど、切実に皮肉に聞こえることはないと思う。心は幼く「遊戯」を求めながら、殺人を犯す大人の身体を持っているアンバランスが数多の事件を引き起こしたのだろうか?

第二章 無党派市民運動と学生革命

引用: 六八年は、世界的なヴェトナム反戦運動を背景にして闘われた。日本でも、全共闘とともにベ平連の運動が高揚した。(中略)しかし、ベ平連の運動は、一般に信じられているような無党派市民運動という面だけでは捉えられないのではないか。そして、その隠された側面にこそ、六八年の学生革命と通底するものがあった。

私がスガ秀実が卓越した思想家だと思うのは、次の文章と出会ったからでもある。

引用: 冷戦体制の崩壊とグローバル資本主義によって自明のこととされてしまった、もはや「政治」が機能しなくなったとシニカルに認識されるごとき、ポストポリティカルな状況における「革命」の不可能性と、資本主義の永続性を追認するだけではないのか。

引用: 「アメリカはイラクから出ていけ」と叫ぶ者が本気でそう主張できないのは、現在におけるソ連邦の不在なのだ。***スガはあくまでも東西冷戦の二項対立に拘るのか?いや彼は、二項対立の片方の項の不在を嘆いているのだ。

引用: インターン闘争や反講座制という「民主化」問題を長年にわたって闘い続けていた東大医学部学生・青医連の運動が、医学部教授会による学生の「誤認」処分撤回をきっかけに、東大闘争として全学化したのは、そのためであった。
(中略)
さらには、日本の六八年は、戦後学生運動の輝かしい担い手であった全員加盟制学生自治会を、「ポツダム自治会」――戦後民主主義が占領軍によって与えられた「ポツダム民主主義」であるのと同様の意味での――として否定した。つまり、それまでの学生運動の担い手であった「全学連」を否定したのである。
(中略)
六〇年代後半当時、各大学の自治会は、おおむねセクトによって系列化されており、そのセクトから排除される部分の活動は制限されていた。これは、「全員加盟」という建て前のもとに「全体」を僭称する、自治会民主主義なるものの狡猾な技法にほかならないだろう。

ベ平連と日本共産党

ベ平連は、六〇年安保において萌芽を見た無党派市民運動の発展形態と見なされている。

「声なき声」とは、民主的係争過程には上らぬ無としての「市民」を可視化し、そこに上らせようとする命名行為であり、決して低く評価すべきではない。

日本共産党にとって、ベ平連は無党派市民運動を装った反共産党的セクト運動と見なされていた。
日本共産党にとって、明確に「反米」を掲げず抽象的に「ベトナムに平和を!」と言うベ平連は、共産党に敵対する「修正主義者」によって操作されている運動と見えた。

これは、初期ベ平連の組織構成からみても、共産党の単なる妄想と言えない問題を含んでいる。
六四年の時点では、反ソ親中ながら「自主独立」を掲げる宮本顕治体制への純化がほぼ完成する。
ベ平連を構成するメンバーのなかには、明らかに、この「修正主義者」が含まれていた。例えば、堀田善衛、いいだもも…
ベ平連には、明確にソ連の平和共存路線が反映されていた。

ソ連派と日本共産党

スターリン批判以降に再発見されたグラムシ=構造改革路線は、グラムシの友人でもあったトリアッティ=イタリア共産党の基本路線であったが、同時に、ソ連共産党=フルシチョフが1959年の訪米で提唱した「平和共存」路線は、その現実化であるとみなされた。しかし、春日庄次郎、内藤知周、安東仁兵衛ら構造改革派は日本共産党内ではヘゲモニーを握ることができず、六〇年安保後、共産党から放逐される。

ベ平連運動の成果として、1967年(ベトナム戦争従軍)米軍脱走兵を幇助したJATECの運動があるという。ベ平連の地下活動によって横須賀から四人の脱走兵をソ連を経由してスエーデンに逃したということである。

ここで無知な私は疑問符でいっぱいである。市民運動のベ平連が地下活動をしていたの?ソ連のスターリン時代から大分経った時代に、「平和共存」のソ連時代に地下活動があったのか?けれども、よく考えてみれば一部の活動家はそういう活動をしていたのだろうな。そして、浅間山荘事件や山岳ベース事件があったのを機に日本国家はそのような運動を根絶やしにしたのだろうな。
また浅学を曝すようだが、三島由紀夫にとってアプレゲールはニヒリズムだったのだということを初めて知った。JATECを幇助した本人はベ平連外の人物で山口健二といい、三島は彼をモデルにして「親切な機械」を書いているという。

そして、日本における山口健二のソ連との関わり、ベ平連のソ連との関わり、自民党青嵐会にまで及んだソ連の干渉、社会党のソ連からの支援をもって活動していたこと。世界においても「平和共存」の裏の「冷戦構造」、その裏の第三国における熾烈な資本主義陣営と社会主義陣営の争い=革命=内戦が勃発していたことはソ連レーニンの掲げた「帝国主義戦争を内乱へ!」というスローガン通りの「戦略」だったのではないか、とスガは読むのである。

引用: 注意しておかなければならないのは、この「可動性と無名性を特徴とする」自由な「平滑空間」は、六八年をこえると、その個々の人間への監視/管理体制へと、徐々に変容していくことである。⇒過激派への「アパートローラー作戦」
(中略)
全学連とは全員参加の自治会を基礎としていた。ところが、学生自治会が「全員加盟制」であるということにも規定されて、その自治会のヘゲモニーを握った党派は、その空間を再び「条理化」しようとする傾向を持った。
大学は自治会をとおして、平滑化しつつある学生の運動を監視/管理することができるからだ。
(中略)
そしてベ平連の「ふつうの市民」、それは、むしろ非=市民なのである。それは、すなわちポスト市民社会の運動たらんとしたことなのである。ここにいたって、ベ平連は全共闘とともに六八年を担いうる運動体となった。
(中略)
六八年以降の大学は、学生の平滑空間への欲望を、学生消費者主義としてくみ上げたのだ。

第三章 「華青闘告発」とはなにか

「赤軍派の登場に象徴される武装と暴力の激化という問題は、スターリン批判によって誕生した新左翼の自然成長的な経緯に過ぎない」とスガ氏は言いますが、あなたたちの後の世代、ノンポリシラケ世代から見ると自然成長的に武装するのは「ありえない」のです。

引用: しかし、「軍隊」の建設や武装闘争を掲げて、先進国プロレタリア革命主義が中心であった日本の新左翼諸党派にとって、「民族問題」=入管闘争は単に副次的にしか位置づけられてはいなかった。

引用: 六九年三月に結成された華僑青年闘争委員会=「華青闘」は、新左翼が毛沢東主義を導入する契機となった二月末から三月はじめの「善隣学生会館闘争」の流れをくみ、積極的に新左翼との共闘を模索する在日中国人の組織であった。

引用: 1945年の日本の敗戦によって、それまでの「日本人」から「外国人」へと地位を一方的に変更させられた朝鮮半島・台湾など旧植民地出身者は、今度は入管令によって一方的に「在日」資格を与えられるという奇妙な拘束を受ける。(中略)この意味でも、入管闘争は「戦後民主主義批判」を掲げる「六八年」の新左翼にとって、焦眉の課題とされぬばならぬはずのものであった。

ところが「六九年の四・二八以来、新左翼政治党派は競って武装闘争のエスカレートに向かい、入管闘争は党派の要員をピックアップするためのカンパニア的な運動としてしか位置づけられていなかった」そうだ。

「六九年八月にはブント赤軍派が結成されている」。

「当時の左派は新旧ともに、六〇年の『国民』的な高揚を理想化して、『安保』こそ運動の担保であるという思考から脱することができなかった」。

「このようななかで、七〇年七・七の華青闘告発は生起した。ことの起こりは、日中戦争の開始を画した盧溝橋事件の三三周年を記念する集会に、中核派をはじめとする政治党派が介入し、主催を要求したことであった」。

「華青闘は主催を辞任し退席する」。「この華青闘退席に際して、中核派の全国全共闘書記局員が『主体的に華青闘が退場したのだからいいじゃないか』と発言し、これが差別発言であるとしてノンセクト系の入管活動家から糾弾をあびることになる。これが、決定的な契機であった」。

華青闘の動揺、新左翼の党派、ノンセクトの糾弾と混乱を極めた。

津村喬の文章を紹介したい。「日本資本主義の内部にいるわれわれのまえに、沖縄・部落・朝鮮、そして台湾をふくむ中国が、差別の体系としてのわが〈近代〉と〈戦後〉の意味を『問うもの』として立ち現れる」。

引用: 津村のこの本によって、ノンセクト系は「六八年」においてはじめて、党派を根底から批判しうる論理を得ていたのである。

引用: その意味でも、津村喬の登場は画期的であったと言える。しかも、津村の思考は、毛沢東主義をロラン・バルトやアンリ・ルフェーブル、そしてゴダールなどをとおして再解釈するというものであったから、きわめてアクチュアルに「六八年」的なものであった。

こうした大混乱を引きずったまま、七・七集会が開催された。

引用: この集会は、夜になっても混乱がおさまらず、華青闘の一員からの日本の新左翼への「決別宣言」が行われ、それに対して全国全共闘・全国反戦を構成する政治党派八派の代表が急遽登壇して自己批判を行うという異例のものとなった。

華青闘の言い分は「今日まで植民地戦争に関しては帝国主義の経済的膨張の問題としてのみ分析されがちであったが、しかし日本の侵略戦争を許したものは抑圧民族の排外イデオロギーそねもの」だからだ。

華青闘が批判しているのは、敗戦のポツダム宣言受諾が天皇制によってなされたこと、「日本人民がそれを避けられなかったところ」にある。
ここで、戦後天皇制=戦後民主主義に新左翼も無縁ではないと批判されていることを確認しておこう。

スガの分析は更に続く。「簡単に言えば、革命が成就すればその他の諸課題も解決される、あるいは、諸課題は革命の後に問題化すればいいということである。しかも、それはインターナショナリズムの名のもとに、『抑圧民族としての日本人』という歴史性を括弧にいれることで可能な、空想的な『主体』のものに過ぎないと批判された。そうした空想的な主体であるからこそ、六九年から七〇年にいたる、赤軍派をはじめとする各党派の空想的な武装闘争が行われた、というのが七・七で直接に提起された問題であったと言えるだろう」。

「ここには今日のアジアと日本のあいだの歴史的認識をめぐるさまざまな問題が、すでに出揃っている」。

華青闘が指摘したように、新左翼は歴史性を括弧にいれることで可能な空想のなかで革命を夢見て武装闘争を行っていたのだ。その背景には、スガが言うようにある種のナショナリズムとセンチメンタリズム(スガはナルシシズムというが)、そしてヒロイズムがあったと思われる。つまり、心情的には彼らは虚構を生きていたのだ。それは、満州事変以来日本軍が背負っていた宿痾ともいうべきものを、新左翼は武装することで引き継いでしまったように思える。それは、仲間に総括を突きつけその果てに死に至るまで暴力をふるったこと。これは日本軍の精神を継承したのだと思う。それでも、アジアを中心とする状況認識が冷徹で空想的ではない革命を民衆が行動し遂行しなければならないという主張は正しかったとスガは述べている。

華青闘が言っていることは、
歴史性を括弧に入れた空想的主体が武装闘争しても一緒には闘争できないよ、ということだと私は思う。

華青闘や津村は、諸党派を含めた新左翼総体の運動を、入管のみならず、さまざまなマイノリティ運動=「対抗運動」の方へとシフトさせた。

引用: 当初の問題は、新左翼において武装や軍事として語られた機動戦と、入管闘争などマイノリティ運動が要請する陣地戦のあいだのディレンマをどう克服するかということであった。それは、機動戦という新左翼の方法がほとんど失効してしまったかに見える今日においても、いまだに解かれていない。
その問題について、七・七自己批判以後に中核派が出してきた結論は、「入管決戦」であり、「血債の思想」であった。⇒日本人の「血の負債」としてとらえ、その負債の清算は「日帝のアジア侵略を内乱へ」というレーニン主義的スローガンと結びつけられるだろう。⇒「血債の思想」は中核派の根幹となった。

中核派やその他の新左翼諸党派が選択したのは、「在日」からの日本人への「告発」を、日本人という「主体」において受け止めようという方向だった。

そもそも、華青闘がそう主張していたように、入管闘争とは基本的には日常的なレベルの陣地戦の問題であって、新左翼の武装・軍事路線にはなじまないのであった。

その後、狭山闘争、三里塚闘争と「決戦」主義とを結合して、運動を展開していく。

端的に、日本人が革命運動の「主体」たりえないという脱主体化にも帰結せざるを得なかった。革命の主体は何よりもまず中国人であり、朝鮮・韓国人であり、ヴェトナム人であって、日本人がそれに参入する資格があることすら疑わしい、という意識である。

狭山闘争へのシフトは華青闘告発によってもたらされながらも、華青闘告発の問題性を隠蔽することに帰結するほかなかったものなのだ。そこで言われた「狭山決戦」とは、「もの」(=フェティシズム)をふるい落とそうとし、しかしそのことで「もの」に、より憑かれることになるスローガンだったのではないか。

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ここまで読んできて、私にも新左翼がわかったような気になっている。
彼らは、まず社会主義国と革命への絶対的な憧れがベースにあり、武装闘争も「決戦」主義も空想的なものだったということだ。彼らは必死で「主体」を追い求めては、逃げられている。
だけど、彼らを嗤えないのは、仮想敵国を設定し軍備増強をしている国家は、やはり空想的な勇ましさをたたえてはいないだろうか?
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内ゲバについて

スガ氏は正直で誠実な方だと思う。「革命ごっこ」が空想的でナルシスティックだったことを明らかにして反省しているからだが。それを虚妄にさせないために内ゲバが必要だったという論理は理解できない。

その後の論理展開も私には矛盾を孕んでいるように思えるが、新左翼・全共闘セクトにはきっと矛盾を感じないで心情的に受け入れられることなのだろう。

引用: 事実、七〇年代から八〇年代にいたる新左翼の運動は、マイノリティ運動と内ゲバという二方向に分裂していく。いま、分裂というよりは、その二つを「両輪」として展開されていった。そして、その理由は今なお十分に問われていないのである。

いや、やはり分裂というからには、新左翼は華青闘告発によって引き裂かれ「主体」を、アイデンティティを失いそうになり、危機にあるものが縋り付くものがゲバルトだった。そこに、丁度いいレーニンの「帝国主義戦争を内乱へ」という言葉があったというだけではないのか。

引用: グラムシは、国家権力の打倒=奪取に革命を特化するレーニンの「機動戦」中心主義を、ロシアという後進資本主義国にのみ有効な戦術と見なした。成熟した市民社会が存在する先進資本主義国では、多様な社会的・市民的・文化的諸集団(そこには当然、労働組合に組織されたプロレタリアートも含まれる)による「陣地戦」=ヘゲモニー闘争の積み重ねによって革命が可能であり、なおかつ、豊かな内実を持ち得ると主張したのである。

改めて言えば、七・七は「平和共存」路線には収斂されないところの、マルチチュードという主体を見出した、新たなグラムシ主義の復権であった。

私には何か何でも暴力革命をしたいという心情が見える。そして、更に疑問なのは、暴力革命を起こそうという人たちが、なぜ同志となるべき内輪の人間をリンチし、殺したかなのである。

その私の疑問には、次の引用文が答えている。

引用: 【花園紀男の赤軍派批判】死を賭した暴力革命を担いうる主体へと規律/訓練するのが、リンチ殺人の目的であったということにほかならない。つまり、武装蜂起の手前にとどまったところの「暴力」が、連合赤軍の死者を生んだと言うのである。
(中略)
さらに、花園の慧眼は、武装蜂起と言いながらその手前にとどまる、この疑似的「暴力」が、実は「内ゲバ」と同じものであるということを看取している。
花園が言うように、中核派や社青同解放派においては、内ゲバは「革命」そのものであるとされているが、誰の目にもーー間違いなく、その遂行者自身もーーそうとは見なしえないものなのである。

更に引用: なぜなら、それ以外に言う方途がないからである。それが、自分たちのやっていることを「革命ごっこ」と厳しく指弾された七・七以降、革命党派のおちいったディレンマなのだ。(中略)われわれは爆弾闘争が革命でないことを知っている、だからこそ、それを革命として遂行するのだ。

更に引用: 確かに、中核派も社青同解放派も(そして革マル派も)、内ゲバ党派は全て、その理論的背景をヘーゲル=初期マルクスに依拠した「戦後主体性論」の系譜に負っており、規律/訓練によって主体を構築するというところに党派性の核心があった。(中略)その規律/訓練の重視が「壁の前」での疑似戦争たる内ゲバを生起させた。

更に引用: 革共同書記長本多延嘉が革マルに殺されたのは1975年3月14日である。

これは、内ゲバを指示していたトップを抹消してしまえば、内ゲバは止まるはずだという論理だった。

更に引用: では、なぜ革マル派の目論見は失敗したのか。それは、すでに述べておいたように、中核派における「主体」の形成が、大文字の「他者」(最高指導者)からの呼びかけを内面化して自らを規律/訓練するといった、近代的なものではなくなっていたからである。

更に引用: シニシズムは、花園紀男の言う「壁の前」のできごとてして、今なお現出している。(中略)社会構築主義を背景としているかぎり、それは資本主義内のリベラルな「構造改革」=陣地戦によって解決可能な(あるいは、解決可能性が方向づけられる)問題として提示されるほかはない。その場合、同じく構造改革を叫んでも、資本の側に立つネオリベラリズムのそれの方が、はるかに強力なヘゲモニーを発揮し説得力を持つかに見えるのは、いたしかたのないところである。

更に引用: そのシニシズムを切断することは可能なのだろうか。暴力さえシニシズムに回収されたかに見える時に、これは可能だろうか。
花園紀男は、そのためのイメージを、「壁」を「千尋の谷」という比喩に置き換えて、今日において考えうる限り、卓抜に語っている。
〈千尋の谷があると。こっち側の崖から向こうの崖まで1メートル50センチだと。(中略)そのときに、跳ぶというのは、平地で跳べるのと、そこで跳ぶのとは別ですよね。〉

この説明は分かりやすいと思う。千尋の谷は革命によって体制転覆することだ。
結局、中核派も社青同解放派も革マル派も赤軍派も千尋の谷の前で躊躇したのか。

更に引用: 坂口弘ら連合赤軍残存メンバーによる浅間山荘銃撃戦は、花園の視点からするなら「跳んだ」行為であるはずだが、それについては花園は触れていない。それは「跳ぶ」という欲望が実現された時には、それが無残な残骸と化してしまうことを教えてはいないだろうか。そうであることを知っていながら、シニシズムを超えようとその欲望を肯定することは、9.11以降においてますます明らかになっているように、すでに「跳んでいる」ネオコンと宗教原理主義の相互補完性のなかでディレンマにおちいるだけではないのか。しかしもちろん、その欲望は必ず涌出してくるものではある。

最後の感想: なぜグラムシから先に進まずにレーニンに戻ったのか?レーニンが原点なのは分かるが、常に暴力回帰するのには、暴力に対する欲望があったとしか考えられない。
確かにロシアも中国も暴力革命に成功した。しかし、その後のスターリンと毛沢東を見れば労働者の支配とは程遠いことがすでに証明されていたわけだ。しかし、中核ははスターリン前のレーニンに夢を見た。そして現在の全学連も。
「自由のための暴力」という本の中でこういっている。「社会主義はただ農民を『搾取』することによって、はじめてロシアで原始的蓄積をすすめることができる。初期の資本主義とちがって、植民地の搾取をとおし、外国の借款の助けをえて発展することはできないからである、と(スターリンは)論じている。ここからスターリンは、社会主義がすすめばすすむほど、それにたいする一般人民の抵抗はますます強力になっていく。ただ『確固たる指導部』だけがこれをおさえつけておくことができる、という結論を引き出した」。
つまり、スターリンは社会主義国家では原始的蓄積をすすめるためには農民を搾取するしか方法はなく、搾取されれば農民は抵抗する、それを平定するためには「確固たる指導部」」=強力な警察権力が必要となると結論づけたのだ。ということはレーニン主義をとっても早晩スターリニズムへの転換が必要になるのではないかと推測される。
千尋の谷を跳ぶという欲望は、跳んでしまったのが文中にあるようにネオコンと宗教原理主義だとすると、物理的な暴力でなくとも良いはずではないのか。(ネオコンは経済的暴力や倫理的暴力に訴えているが)
世界の変革には暴力が有効なときがあるのは認めるが、世界は内乱だらけで国家もアナキズム共同体も危機に瀕している(中東、アフリカ、南米を見よ)。安定しているのは専制独裁国家のみである。これが西側民主主義がネオコンによって崩壊させられた結論であると言ってよいのだろうか。
闘争はきっと今までのやり方ではないやり方で生まれてくるのではないかと思う。これからはAIやAIを使った監視社会、そしてグローバル格差との闘いだ。それでも物理的な破壊が勝る可能性はなきにしもあらずだ。私には全く予想がつかない。

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