見出し画像

自叙伝⑩息子の誕生と自意識過剰

時がたち、体が完全に回復して医者からOKがでた後、また不妊治療を開始しました。
そしてありがたいことに妊娠することができました。
悲しみは癒えないけど、それに明け暮れて終わるのではなく、体が大丈夫なのであれば絶対に子どもを産みたいとかなり強く思っていました。
その希望があったから悲しみは消えなくてもなんとか立ち直れたこともあったと思う。

この頃の私が「子どもを生めば自分の苦しみが終わる」という気持ちがなかったかと言われたら嘘になると思います。
でもそれだけではなく単に一人の女性として子どもを持ちたいという気持ちも本当にとても強く持っていました。
まだ自覚していなかったけど、私は「幸せな家庭」に強いあこがれを持っていたんです。
自分が生まれ落ちた家では得ることのできなかった安心できる幸せな家庭を自分で築きたいと心底願っていました。

妊娠経過は順調でした。
最後までどうなるかわからないことを知っているため不安ももちろんありました。だから神経質に過ごしていました。
とにかく早く無事に産みたい、産んでこの手に抱くまでは安心はできませんでした。
妊娠期間がものすごく長く感じました。

そしてこの頃急激に「自分は何かになる」という感じを猛烈に感じ出すようになりました。
これは強いエナジーのようなものを伴っていて、とても気になりました。
ただそれが何なのかはわからず「想定できないってことは私が知らない職業かな」と感じていました。
動き出したい衝動が腹の底から突き上げてきました。
とはいえとにかく出産を控えていたのでハラハラしながらもなるべく楽しく過ごせるようにはしていました。

そして無事に息子を出産することができました。
小さな息子の存在はとんでもなく尊いもので、とにかく無事に会えてホッとしました。
まともに愛されずに育った私だったけどちゃんと息子を愛しいと思えたし「我が子ってこんなにかわいいの?」ということにとてもびっくりしました。
今もですがこの息子の可愛さたるや、地球が破裂するのではないかというほどの巨大さです。

可愛くて可愛くてどうしょうもないお方。

息子の誕生により周囲との関係もまた復活し、普通に暮らすようになりました。
しかし心が完全に晴れることがなく、母になれたら万事が解決すると思っていたのに心から笑えない自分に困惑するようになりました。
「なんかやっぱり、私はヘンだ」そんな感じがすごくありました。
でも何がヘンなのかを具体的に言語化することもできなくて、夫に「私ってどこかヘン?なんか普通の人と違う?」と聞いたりしたこともありました。
夫は「いや、そんなことないよ、大丈夫」というんだけど、でもなんか、ヘン…。
表面的には普通に生活できるし一見はなにも問題がないんです。
でもなんかスッキリしないというか、笑ってるんだけど笑ってないみたいな、そんな感じがあったんです。
アダルトチルドレンのことを精神科で「考えてもしょうがない」といわれて以来棚上げしてよく調べてなかったため、これがそのことに由来するとは気がついていなかったのです。

そしてまた息子をこの上なく愛しているのに子どもと過ごすのが苦手であると気付いたときにも戸惑いました。
めちゃくちゃかわいいのに、そしてたくさん抱っこしてお世話するのは問題ないのに、遊んであげるのが苦手なんです。
ずっと一緒なのがしんどく感じて、少し離れたいと思ってしまう自分を責めていました。
これがアダルトチルドレンの特徴の一つであるともまだ気づくよしもなく。
(※子育ては大変なのでありがちなことではあるけど、特にそういう症状が強く出る場合がある、ということです)

私は自分が母親となったことで母への憎悪が増しました。
普通は逆なのでしょうけれども。

我が子とはこんなに愛しい存在なのに「あれ」は私にあんな育て方を!?と思うとますます人間じゃないな、と嫌悪と憎悪を感じました。

しかしこのころはまだまだばっちり共依存だから、嫌い合っているのに距離が取れないという、無自覚なもの同士ゆえの癒着がありました。
そんな母と会わんでええやん、ということなんですが、会うんだな、コレが(笑)

どこかで理想のお母さんになってくれることを往生際悪く期待していたり、母を深層ではかわいそうと思っていたり(だから自分がなんとかしてあげないといけない)、精神的な境界線が引けなくて、母のことでよく気分が浮き沈みしました。
アダルトチルドレンとはその名の通り、体は大人だけど中身は子どもなので、心がまだ母に支配されている状態だったのです。
母が落ち着いていれば安心で、機嫌が悪くなれば私も危ういといった具合です。

そしてまだこの頃、死産の苦しみが色濃く残っていました。
無事に息子が生まれても、それは簡単には癒えなかったです。
最初の息子が死んだのは自分のせいだ、自分の生き方が悪かったからバチが当たったとずっと自分を責め続けていました。

そのときある人に「ある意味その考えはおこがましいよ。あなたの生き方次第で人の生死を左右できると思っているってことだからね」と言われかなりハッとしました。
確かにそうだ、と思いました。
じゃあ私が品行方正に生きていたら息子は助かったのか?
私が荒れていたから息子は死んだのか?
そうだとしたら私の行いひとつで人の生死を決められることになる。
それってかなり自意識過剰だと思いました。
私が人の生死を左右する?
そんなに凄い力を持ってるの?神なの?
一体何様なの?
とんでもない自意識過剰だと思えました。

荒れていたことを正当化したいとか、「私のせいじゃない」みたいな開き直りではなく、私がどうであろうと、たとえ聖人君子のように生きようが、個人の在り方では操作できない事柄があるのだと思いました。

そうだったとしてもどうだったとしても、生きていて欲しかったけど。
でも泣いても喚いてもどうしようもないことがある、そんな風に思いました。
そして悲しみは時間にしか癒やすことが出来ないということも。

続く。

いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集