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普段「意識を変える」と気軽に言うけど、「意識」っていったい何だろう?

不具合に感じる自分を不快に思ったとき、人は「意識を変えよう」と思ったりすると思います。
私も気軽に意識っていう言葉を使っていたけど、果たして意識とは一体何なんなのか、と言われると私は正確には答えられなかったです。
そこで意識とは何なのかということを理解しようと思いました。

人は誰しも「私」という感覚を持っていて、あたかも体の中に何か霊体のようなものが入っていて確固とした「私」というものがいるように感じます。
その「私」がすべての意思決定をしていて、自分で自分の人生を生きているかのように感じますが、実際の実際はそうではないという事実があります。

「私」という存在は脳機能により創発的に生じる現象

かなりざっくりとした図になりますが、こんな感じで脳内はモジュールとよばれるたくさんの専門工場の集まりのような機能をしています。

例えばモノを認識するときに「私」という主体がいてそれがそのモノを認識しているように感じますが、実際の仕組みはそうではないです。

例えばリンゴを見た時には瞬時にリンゴだと認識しますが、その色を認識する専門工場、形状を認識する専門工場、リンゴという単語の意味記憶の専門工場、などなど、脳内では一人の主体がひとつの認識を起こしているのではなく、専門工場が細分化して同時に情報処理を行った結果、「リンゴである」という認識が出来上がるんですね。

つまり一つのリンゴを見た時にそれをリンゴだとわかるにはとんでもない速さでたくさんの専門工場が仕事をしてその結果をひとまとめにしたものを受け取っている存在が主体として捉えている「私」だということです。
「私」には実体がないばかりか、質感(クオリア)でしかないという…。
にわかには信じがたいですよね(笑)

このような感じで(すごい雑な説明だけど)脳内にはすごい量の専門工場があって、それらがネットワークでつながっていて常に感覚受容体からの外部入力を処理しており、これはインターネットの構造のようにどこかに元締めみたいな統括本部的なボスがいるわけではないんです。

なので普段私たちが感じていることと、実際の人体の仕組み上行われている生体の動きとは乖離があります
意識の仕組みを知っていたとしても、感覚としてモジュールの働きを感知することはできませんし、私という主体的な意識がモジュールによる創発的な質感であることも感じることはできません。

繰り返しになりますが体の中に「私」という確固たる主体や意識がいるわけではなく、意識は脳内に分散していると言えますし、入力する情報が極端に変われば情報処理されて出来上がる意識も変化するので、絶対に変わることのない不変の私という主体は存在しません

このことは禅の無我と同じ意味だと私は思っています。
禅で無我の境地って言ったりするけど、それってつまり「私」という確固たる主体がいないということを言っていると思います。

諸行無常も同じように捉えています。
私たちは私と感じる意識を含めて常に(というかいつも瞬間的に)変化し続ける存在でしかないからです。
仮に似た外部入力があってそれを情報処理した結果が同じように感じたとしても、寸分たがわぬ同じものをもう一度発生させることは不可能だと思うからです。

私は初めてこのことを学んだとき、虚無感が湧いてきました。
受け入れがたかったです(笑)
だって、私はここにいるもん!って思ったし、自分で自分の人生を歩んでいるつもりでもいましたし。

でもそうじゃなかった。
私たちはある意味何一つ自分で動かすことのできない存在でありながら、そうできると思える意識というものをも授かっています。

「生かされている」なんてよく言うけど、それが本当の事なんだってよく理解できるようになりました。
私が生きてる!って思ってたけど、そうじゃない。
感じることさえできない膨大な働きの中で生かされているのだと本当に思います。


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