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1117_レミング稽古場日誌

これはB機関という劇団で演出助手をやっている私が、基本的に稽古場で自分の考えたこと、面白いと思ったこと、感じたことを言語化し、記録していくためのあくまで個人的な【非公式】の稽古場日誌です。
あわよくばこれを見た人が「B機関面白いことやってる!」と公演に興味を持ってくれたら嬉しいな…とか思いつつ、主には自分が整理し、自分の将来の糧に繋げていくための覚書として残していきます。
かつパラ(おがたの旧弊劇団)のノートの様に、脱線を繰り返し、考えながら文章を書いたような未熟かつコアなコンテンツになっていくと思いますが、それでもよければ読んでください。(このかつパラの稽古場日誌のバックナンバーは結構みんな頑張って書いてるので見て欲しいです!笑↓)

また、ここに書いた内容はあくまでメモであり、私から見た認識や考察や他者の言っていたことが入り混じっているため、参加している方たちの思想とはあまり関係ないと思って欲しいです。

余談

私はコロナ禍によって、B機関にとって幻の公演となってしまった1年前の「毛皮のマリー」から助手としてこの劇団に参加している。当時と比べて自分で成長したなと思うところもあれば、まだまだ未熟ですという顔をして優しいスタッフやキャストさんに甘えているところもある。そういう風に振る舞っていた方が、有利な場合だってあるのかもしれないし事実私はこの劇団で年下の方なのだが、もう23なのだから、もっと一人の大人として見られたいし、そうなるように賢い大人にならなくちゃいけない。時々悔しい気持ちにもなる。(一緒に参加してくれている後輩のけんちゃんや西村くんの方がずっと大人だ。)
脱線したが、中途半端になってしまった一年前の公演にちゃんと切りをつけたいという気持ちで今回は参加した。演劇はもうやめるつもりだったので、創作へのモチベーションより、点滅さんやB機関に貢献したいという気持ちが強かった。
しかし、最近になって稽古自体に好奇心を刺激される様になり、ここでの経験をぜひ積極的に自分の今後の創作活動に生かしていきたいと考える様になった。この様な視点で稽古を見ていくと、より一層面白くなった。
私は現在映像のクリエイターになりたいと考えている。このことについては以下の記事の冒頭を見てほしい。

これからの個人の映像作品の創作において今回の助手での経験を生かしたい、という視点で視点で稽古の観察と考察を行っていくし、ノートもその様な方針で書いていく。

6場

以下に私が面白いと思ったことをひたすら列挙する。


モノローグにおける観客に渡すという作業は、
・イマジネーションごと渡す
・言葉だけ渡して想像させる

のどちらかである。
そして、前者は
・イメージを具体的にする
・そのイメージを渡す

という2つの作業によって作られる。

このプロセスのうちイメージを具体的にするは前回の稽古でやっていたのか、私が稽古場に来た時にはイメージを渡すの訓練をしていた。
(ちなみに、イメージを具体的にするの作業もかなり徹底的でとても面白い。私もキャストとしてあの作業やりたい)
キャストと演出補佐が座って向かい合い、普通に話す距離でモノローグを読み上げていた。これ見て、イメージを渡すとは、要はコミュニケーションをちゃんと取れということなんだと思った。具体的には
・相手に想像力を与える
・相手の想像が追いつかない場所は色をつけて渡す

ということらしい。

・大事なものを雑に扱う
・大したことないものを大事に扱う

と関心が惹きつけられるの法則

役者は常に厳しい方を選んだ方が面白い

舞踏ワーク

舞踏は可視的であれ
実在しないカタツムリが手の上に存在し、そこからカタツムリが移動することを知覚するワーク。まず、カタツムリがどういうものか認識するために映像を見て、その後カタツムリに対するイメージのブレストを行なっていた。

不思議と確かにカタツムリが見える人と見えない人がいた。そして、カタツムリが私からも見える人の身体の動きはやはり面白く逆もまた然りだと思った。
その違いは具体的にどこに現れているのか?私たちはその人のどこを見てそこにカタツムリがいると感じるのか?自分で”動いている”と”動かされている”の違いはどこで認識しているのか?

舞踏ができない→できる
この間にどういう作業があるのか?

これは全くスポーツの手法だと思った。例えばテニスでは、ラケットを上手く振れているつもりのプレイヤーに対して、コーチがプレイヤーの気づいていないところを指摘し、動きを修正する。(ラケットが上を向いているからボールが上に飛ぶのだ。ラケットはボールの進行方向に対して垂直向けなければならないなど。)これと同様に、下半身が硬くて全身が自由でないキャストに対して、踵を安定させないことをアドバイスする等、キャストの意識の外にあることを指摘し、修正することを果てしなく繰り返すによって身体の洗練は完成されていくのだなあと思った。
他者を観察して、何ができていて何ができていないのかを理解する、と言う作業もスポーツだ。

脱線するが、創作においてイメージを相手に伝えるという手札を如何に増やしていくかが私の感心ごとだ。例えば、先日劇中の囚人二人の関係性に関するワークで、鉛筆を二人の人差し指の間で支え、セリフを言いながら動き回ると言うワークをやっていた。鉛筆でつながるという半端に間接的かつ不安定な関係性(=影響を与え合う関係性)が一番面白いため、その状態を身体に理解させると言うワークだと解釈した。

舞踏で身体の状態を相手に理解してもらうためにはどうやっていくのか、今後も観察していきたい。
またここで更に脱線だが、別のワークで新聞紙のガサガサした質感を体で味わい染み込ませると言うワークをやっていて、その過程で新聞紙の上を歩くと言うことをやっていた。これを見て、豊洲のチームラボの最初にふっかふかの床の部屋を思い出した。質感を体に染み込ませると言うのは
・質感を感じ味わう
・質感を体に入れる
と言う2段階あるように思う。新聞紙の上を歩く、やふっかふかの床を歩く、はまさにこの一段階をやっているんだなと、一人で分解能が増えて合点がいった。(というか、ふっかふかの床に限らずチームラボは全体的に質感の身体化をずっとやってると思う)

動きではなく知覚
手の上で動いているのを想像するのではなく、知覚する
正確にイメージするとは時間をかけることではない。勝手にアリやカタツムリが動くということ。
岩渕貞太さんの舞踏のWSを受けた時も感じたが、舞踏は無我の世界だと思う。自分の体で何かを表現しようとするのでは、小さくなってしまうため、自分が大きな何かに動かされると言う価値観。身体表現のWSは私は岩渕貞太さんと山縣太一さんのくらいしか受けたことないので、あまり高度な比較ができない。しかし、点滅さんの舞踏が違うのは質感に対する情報の詳しさによると思う。(まだわかっていないところが多いと思うが、今日何が違うのか考えた結果出た一つの答えである)それが情報量の多い身体を生んでいるのではないかと思った。私は面白い会話劇は、情報量の多い身体状態から生まれると考えているが、それとリンクする点を感じた。(無理矢理結びつけてしまっているのかもしれないが、どうしても舞踏と演劇を行き来していると、共通点を感じざるをえない場面が多々ある

舞踏ができている人の体を見ていると、動いている場所、表情、全身とあちこちに目が行き、飽和していく感覚がある。踊り手の意識の密度が飽和して、ゲシュタルト崩壊していく様を身体感覚として共有しているのだと思う。
また、カタツムリが最初は右耳の下にいたキャストが、左耳の下にもカタツムリが増えるように指示されたとき、右に傾いていた頭がグーっと左に傾いたのが面白かった。惑星が万有引力を持つように、カタツムリの存在感という質量が可視化された瞬間ですごく面白かった。
この2点は旧弊劇団の”ひしめき”という公演で挙がっていた概念だったが、畏れ多くもひしめきは舞踏の入り口からの光がほーんの少しだけ見えていたのかもしれないなと思った。

6場の、新聞紙を体の中に”入れて”質量の軽くなったキャストたちが舞台上に集まるシーンは見ていてワクワクした。B機関のやっている役者が舞踏をやると言うことに意義を感じた瞬間だったし、面白くなると思った。(偉そうで本当にすみません…)

最初からこの文量で書くと三日坊主になりそうだが、イメージを身体化する作業が稽古を通じて少しずつ見えてきた気がする
次の稽古も楽しみです!!!!!!!

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