土佐の高知の片隅で
昭和六年(西暦1931年)生まれ。
太平洋戦争、南海地震、愛媛への出稼ぎを経て、15歳年上の台湾人と結婚し、机一つから商売 を始め、貪欲に店を切り盛りし、昭和、平成、令和と駆け抜けた母、菊(仮名)の生涯を綴っておきます。
高知城の西側、井口町の近く、江の口川支流の近く、
長男一男(仮名)、次男努(仮名)、長女信子(仮名)、それに弟(幸雄)との5人兄弟姉妹、それに、少し病弱な母、初子(仮名)と6人の家族で、 ムードメイカーな次女として育った。
父親は菊が3歳の時に亡くなってしまった。
「病弱な母と弟の面倒を見るのがわたしの役割」と、自分に言い聞かせて育った。
初子の旧家はちょっとした富豪であったらしいが、初子の代で廃れてしまい、初子は「お嬢様育ち」で働けなかった。
次男の努は、「歩けば2階の窓が開く」とまで言われた美男子であった。寺から招かれたが、初子が断り、出稼ぎに出した。そこで、暴力にあい、肺を患って出戻った。結婚しても嫁が働き、ついに、職につくことはなかった。
長男の一男は大阪のお造船会社に就職し、一家に仕送りしていた。
菊は、一男に少し恋心に似た憧れと尊敬の念があった。
しかし、菊が10歳になった頃に、一男は大阪で結婚してしまった。菊は10歳にして小姑となった。お嫁さんに少しやきも ちをやいた。少しだけ、意地悪なことも言ってしまったかもしれない。
そんな長男も、 太平洋戦争の兵隊にとられていった。南の方の戦線まで参加したが、マラリアに罹患し、途中帰還した。
もし、マラリアにかかっていなかったら、そのまま戦死していたかもしれないと思うと、マラリアにかかったことはある意味ラッキー だったかもしれない。
長男のお嫁さんにとって、結婚したとたんの出兵であったため、「世界が終わったような悲しさだった」と話していたが、それは、高知の家族に とっても同じことであった。菊も母とお百度参りをして、無事を祈った。
高知にも空襲があった。
米軍の飛行機が逃げ回る女子供を追い回し、最終的に狙い撃ちされたこともあった。
安全地帯として小学校が指定されており、走れないという母、初子をおんぶして小学校に到着したものの、門が閉まっており、母親を塀に登ら せている最中、米軍の飛行機がやってきた。
ああ、これで終わりだ
と思った瞬間、飛行機は塀を通り過ぎ、子供が集まっている校庭を集中砲火した。
母親初子が塀を登れず、校庭に間に合わなかったことで命拾いした。
そんな話は高知に限らず、日本中に蔓延っていた。
鬼畜米兵とはまさにこのこと。
そんなことがあったのに、終戦を向かえたとたん、日本は米国に占領され、米国こそがお手本となった。
飛行機に追い回された菊も、すっかりアメリカに憧れた。
ものが全くなかった戦後、GHQからの配給がこの上なく有り難かった。
菊はもんぺの代わりにGHQからもらった洋服を着るようになった。1着しかないため、ずっと同じ服を着ていたが、それが恥ずかしい こととも思わず、大事にその1着を着ていた。
GHQは日本の文化や経済に大きな影響を与えていた。高知の街にもダンスホールができた。
菊は毎日ダンスホールに通った。 日々のお米すら困っていた時代に、夜な夜な出かけてジルバのステップを踏んでいた。
(母談↓)
全部、男のおごりよ。今とちごうて、必ず男がおごるとしたもんやったきねえ。それが当たり前やったき、私がおらんと,おもしろうない言うて,みんな連れて行ってくれてねえ。
洋服はなかったき,GHQがくれたがあ1枚をずーっと毎日きよった。 そのころは,1枚だけをずっときゆがが恥ずかしいとかいうのはわからんかったきよ。ずっとおんなじ服ばっかりよ。
そのうち,同じ服やき,貧乏やいうのがみんなわかってねえ。でも,すごいようしてくれたわ。ダンスホールも、
「あんたが来たら客が来るき」
ゆうて,途中からタダにしてくれたしねえ。姉さん(信子)がいっつも私をみて,
「あんたそんな男におごらせてなんも見返りのうてようやるねえ」
ゆうていいよったわ。
けんど、その頃はまだ,男がどんなんかわからんかったやんか。
ほんまはやらしゅうて、、、ほらぁ。。。。
そんなん知らんと、とにかく金蔓にしよったわけよ。
(↑ ここまで)
当時、菊には「みーちゃん」という仲良しがいた。
手を繋いで、ステップを教えて、みーちゃんもダンスホールへ連れて行った。
二人はどこへ行くにも一緒だった。