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言葉の意味が客観性を持つということは、その言葉の意味が私の経験から離れていくことでは決してない

勢力尚雅・古田徹也著『経験論から言語哲学へ』放送大学教育振興会(2017)、第4章「ヒュームの懐疑論と寛容論」からの文章であるが・・・

語の意味を知るとはいわゆる「メンタルイメージ」(語に対応する私秘的なイメージ」をもつことではない。たとえば、「政府」や「征服」などの一般名辞の意味を意味を知ってそれを適切に用いる行為者になることができるということは、その名辞の下に包摂され集められている諸観念を生き生きと想像出来るようになることではなく、むしろ、その名辞を他の名辞との関連上適切な仕方で用い、通時的な自分自身からも、会話の相手からも、承認されるようになるということである。(勢力氏、80~81ページ)

・・・これはヒュームの抽象観念論と全く異なる見解ではなかろうか。ヒュームはいつそんなこと言ったのか? 

こういった決めつけは多くの哲学者(特に分析哲学者)の間に広く認められる誤解である。私だけが用いている言葉において、その言葉の意味は当然私自身の経験として現れる。そして、仮にその言葉が他者と共有されるようになったとしても、やはりその言葉の意味は、私にとっては私自身の経験としてしか現れないのである。

言葉の意味が客観性を持つということ(言葉が他者と共有されるということ)は、それが私自身の経験から離れていくことでは決してない。

「政府」という言葉は皆知っている言葉である。当然、政府という言葉の意味として、皆がそれぞれ自らの具体的イメージを持っているであろう。それがその言葉の意味でなくて何だというのであろうか? それが皆同じものかどうか怪しいものであるが、それでもある程度の共通点があって「政府」という言葉を用いて会話もできる。そしてその会話の中で、私と彼との「政府」理解が少々異なる可能性を見つけることもできるのだ。その違いを見つけたからといって、ただちに他者の理解を「間違いだ」と断じるとは限らない(もちろん否定的になる場合もあろうが)。

このように「政府」という言葉が多くの人の間で承認されている・共有されているということは、その言葉が個々人の持つ具体的イメージから離れていくことでは決してないのである。

言葉とその意味としての私の経験とがセットとして理解されている。そして他者においても、その言葉とその意味としての彼の経験とがセットとして理解されている。そうであるからこそ、会話の中で、私と彼との間の言語理解の共通性や齟齬を見出すことができるのである。

繰り返すが、言葉の意味が客観性を持つことは、私自身の経験から離れていくことでは決してないのである。


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言葉の意味は具体的・個別的経験(印象・観念)としてしか現れない
  ~萬屋博喜著「ヒュームにおける意味と抽象」の批判的分析 http://miya.aki.gs/miya/miya_report22.pdf

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