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「リンゴ」がどのように見えているかの問題ではない/<知>=概念とは実質的に何のことなのか : 竹田現象学における「本質観取(本質直観)」とは実質的に何のことなのか(その4)

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引用部分は、竹田青嗣著『現象学入門』(NHKブックス、1989年)からのものです。

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5.「リンゴ」がどのように見えているかの問題ではない/<知>=概念とは実質的に何のことなのか

 竹田氏は本質直観について次のように説明されている。

 リンゴがなんであるかをまだ知らない幼児と大人では、またふつうの人とリンゴ作りとでは、赤いリンゴを見たときの”直観”のありようはひどく違っている。この違いは明らかにそこに入り込んでいる<知>=概念の違いである。とすれば、「原的な」<知覚>が、現実知覚を構成するもとの要素とは言い難い。ふつうひとは、リンゴを一瞥しただけで、それがリンゴであること、およびリンゴがなんであるかを”直観”しているのであって、まず、赤い色、丸さ、重さ、つやなどの諸要素を「原的」に<知覚>し、つぎにそれを意識的に統合して一個の丸いリンゴの<知覚>像を得ているわけではないからだ。
 すると人間の個的経験の「明証性」(たしかに事物がいまここにあるという直接経験の確実性)の基礎として、単なる<知覚>直観のほかに、どうしても<本質>直観、つまりものごとに含まれる<知>=概念を”直観”する働きを考えざるをえなくなる。

(竹田、67ページ)

私たちは、それを見てただ端的に「リンゴだ」と思うだけであって、いちいち様々な知覚を「構成」した上で「リンゴだ」と思うわけではない。そういう意味ではこの竹田氏の指摘はもっともなものであると言える。そして、この見解が先ほどの「構成」という考え方と食い違うことは竹田氏も指摘されている。

 しかし、これはさきの現象学の発想からは矛盾ではないかという疑問がでてくるだろう。というのは、<知覚>はそこで唯一の<意識>の自由にならない表象とされ、まさしくそのことで「不可疑性」の源泉とされていた。

(竹田、67ページ)

本質観取は、一つの原的、に与え働きをする作用であって、またそのようなものであるからには、感性的知覚作用の類比物であって、空想作用の類比物ではないのである。

(竹田、68ページ:『イデーンⅠ』からの引用)

本質観取は、頭の中でものごとを考え出す観念の働きというより、物の知覚に似たものだ、とフッサールは言うのである。

(竹田、69ページ)

・・・ここでは4つの問題点を指摘しておこう。

(1) 「リンゴがなんであるかをまだ知らない幼児と大人では、またふつうの人とリンゴ作りとでは、赤いリンゴを見たときの”直観”のありようはひどく違っている」という説明に関して・・・知覚経験をわざわざ「直観」と言い直すことは意義がない。むしろ誤解を生むだけである。私たちの経験上では、ただそこに何かが見えて、それを「リンゴだ」と思った、言語表現した事実があるだけである。<知>=概念を”直観”したわけではない。

(2) 人によってどのように見えていようが、「リンゴ」という言葉の意味が具体的・個別的知覚経験であることにはなんら変わりはない。そして本当に違って見えているのであろうか? 実際、違って見えているのかもしれないが、しかしその見解自体も憶見と言えるのではないだろうか? 常に同じとは言い切れなさそうではあるが、常に違うとも言い切れないのではないか?
 また、子どもがそれを見て「リンゴだよ」と言い、大人も「リンゴだね」と同意するのであれば、見え方がどうであろうと、知覚経験と「リンゴ」という言葉との繋がりを(その場においては)疑うべくもないのである。たとえ見え方が違ったとしても、子どもの見解を大人が否定できるわけでもない。リンゴはリンゴである。

(3) 「諸要素を「原的」に<知覚>し、つぎにそれを意識的に統合して一個の丸いリンゴの<知覚>像を得ているわけではない」のである。「そこに入り込んでいる<知>=概念」というものがあると、いかにして知ることができるのであろうか?
 おそらくであるが、自分自身のリンゴに関する知識が子どもの頃から増えた事実、あるいはリンゴ農家がリンゴについて他の人よりリンゴの細部について様々な説明ができる事実などが論拠になっていると考えられる。いずれにせよ、これらは経験と経験との因果的関連づけ、あるいは他者とのコミュニケーション(あるいは様々なメディアからの情報)により獲得された知識である。
 様々な関連知識が増えることで、「リンゴ」の持つ性質を様々な要素から説明することができるし、細部まで観察・分析することができるようになる。様々な色を表す言葉(とそれに対応する事物)、あるいは触感を表す言葉(とそれに対応する事物)を知っていれば、それらを用いてリンゴ(と言語表現された対象物)をそれらの言葉を用いて詳細に説明することが出来る。これは因果関係というより他の事物との同一性・類似性といった方が良いであろうか。いずれにせよ究極的な意味である知覚経験(や心像)を他の事物と関連づけることで(言語によって)説明する二次的意味であることに変わりはない。
 さらに考えられることとして、(距離その他さまざまな要因で)はっきりと対象物を識別できないとき、「あれは〇〇だよ」と教えてもらえばそれがよりはっきりと認識できる場合があるかもしれない(私自身の経験を振り返ってそういうことがあったようななかったような、はっきりしないため具体的事例を挙げづらいのだが)。ただ私たちはそこにどのようなメカニズムがあるのか、具体的経験として知ることはできない。思索のみで明らかにできるものではなく、科学的に検証すべき事柄であろう。ただ言葉にまつわる様々な影響について因果的に推測をすることはできる。

(4) 意識という経験はない、と既に述べた。「<意識>の自由にならない表象」というものが(竹田氏の言う)明証性の根拠になりえるのかどうか。<どこにもないもの>の自由になる・ならないものとはいったい何なのであろうか? ナンセンスである。
 そもそも経験は、ただただ現れるものである。数学の難しい問題の答えも、ただ閃くものである。閃かなければ「分からない」だけである。昔の記憶を辿ろうとしてある心像が浮かんでくる。しかし浮かんでこないこともあるのだ(思い出せないということ)。そのたまたま浮かんできた心像を意識の自由に引き寄せたり遠ざけたりできると言えるのであろうか?
 いやおうなしに思い出してしまう記憶、想像してしまう空想物もある。イヤーワームというものもある。メロディーが何度も頭の中で(とりあえずそう表現しておく)反芻してしまう現象である。それが既存の曲であるとは限らない。
反対に、視覚的経験は目をつぶれば見えなくなる。近づけば大きくなるし遠ざかれば小さくなる。小さい物ならば身近に置いておけばいつでも見ることができる。<意識>の自由・不自由などどうとでも言えることなのだ。
つまり「<意識>の自由にならない表象」が「不可疑性」の源泉であるという見解は根拠がないといわざるをえないであろう。





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