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哲学は、言葉を使い始めた人間の知的営みにおける”負の遺産”なのかもしれない

今は『デカルト的省察』第4章読んでいるところです。私はいったい何を読まされているのだろう・・・というかんじです。

ある程度読み進んでから、『フッサールの「反省」とは実質的に何なのか』ということについてまとめていこうと思っています。

「反省」とは”直進的”把握の反省などではなく、対象物を再度詳細に観察(あるいは対象物を思い出す)、つまり直進的把握を行い、それらを因果的に関連づけて構築される対象物の客観像構築プロセスなのだと思います(それが正確かどうかは別にして)。

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ほとんどの哲学理論は間違いです。もちろんすべての事柄について間違えることなんて無理ですから、その中に正しい見解を見つけることもできます。

しかし、根本的な考え方自体が間違えているのです。究極的な原因の一つに言葉の意味に関する誤解があります。哲学者たちは言葉をもって説明しようと試みます。しかし言葉の意味は究極的に言葉によって説明できるものではありません。論理の究極的根拠を論理によって説明することができないのと同じです。

それらを言葉で説明しようとするうちに、言葉の意味に関する転倒した認識が哲学者たちにしみついてしまったように思えるのです。

そして、言葉や論理で説明できないこと=根拠がない、ということでは決してありません。このあたり、哲学者が陥りそうな誤解ですね。


哲学書に書かれているおかしな説明に呑み込まれてしまう人が多い現実に愕然とすることがあります。

哲学書に書かれていること、もし普通の人が同じことしゃべっていたら、おそらく「なに変なこと言っているんだ」と思うのではないのでしょうか?


<関連するレポート>

竹田現象学における「本質観取(本質直観)」とは実質的に何のことなのか
http://miya.aki.gs/miya/miya_report37.pdf

・・・言葉の意味に関する転倒した認識(「本質」)について説明しています。


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