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問題はニヒリズムではなく、”100か0思考“

 竹田現象学の批判ばかりしていますが、もちろんきちんと評価すべきだと思える部分もあって、そのあたりもきちんと拾っていきたいです。私にとっても、思索の方向性が見えてきたのは竹田現象学のおかげですし(その後、谷徹さんの『これが現象学だ』を分析しながら、おおよそ私の考えがまとまりました)。
 私自身の考え方は、既存の哲学との関係で説明すれば”懐疑論を取り除いたヒュームの経験論”というのが一番近いかな、と思います。ここまで行きついたのは竹田現象学のおかげでもあります。しかしフッサールやハイデガーには全然共感できませんが・・・

 昨日、苫野一徳著『どのような教育が「よい」教育か』(講談社、2011年)を再び手に取って冒頭部分をちょっと読み直してみたのですが、最初だけでいろいろ言いたいことが出てきますね。

 教育とは何か、そしてそれは、どのようにあれば「よい」といいうるか。
   本書で私は、この問いにできるだけ広範かつ深い共通了解を得られるような、「答え」を提示したいと思う。

(苫野、11ページ)

・・・この問いに対し、以下の事実も「答え」の一つだと言わざるをえないのではないでしょうか。

こうした多様な「よい」教育の理念やアイデアは、多くの場合、発想や立場を異にする教育理念やアイデアと、激しく対立することになってしまう。

(苫野、15ページ)

・・・対立してしまう、それが「答え」ではないかと思うのです。
 「私たちが地球に住んでいる」という事実は、皆が認める事実たりえています。一方、教育の方向性や理念については多くの対立が生まれる。立場によっても異なるし、時代によっても異なる。国によっても異なる。
 その中でもある程度は皆が共感しあえるものを見つけることができるのではないか、というのが苫野氏の考え方だと思います。苫野氏の言われるように、

万人にとって絶対に「よい」「正しい」教育を、私たちは完全に決定してしまうことなどできない。

(苫野、11ページ)

・・・しかし、” できるだけ広範かつ深い共通了解を得られるような、「答え」”は出せるのではないか。様々な立場の人たちが話し合い、できるだけ共通の考え方を見出していこうという非常にまっとうな考え方だと思います。
 問題は、どういった範囲において(どういう立場の人たち、どういう教育分野において・・・など)どれくらいの共通了解が得られるか、ということでしょう。
 ただ私が思うに、共通了解は”原理的に”決められることではなく、皆が話し合った”結果”、つまり一つの”事実”として現れることだと思います。その結果として対立が生まれているのであれば、それは一つの事実として受け入れるしかないのだと思います。
 苫野氏(そして竹田現象学一派の方たち)が言われる”自由と承認”も、やはり立場によって揺らぎかねないものですし、そもそも苫野氏の言われる「自由」というものに問題があるようにも思われます。
 より”広範な”共通了解がどんなものか知りたければ、より多くの人たちの考えを実際に聞き、分析していく必要がある、つまりそれは”哲学(あるいは哲学者)”の仕事ではない。あくまで社会調査によって明らかになる事実関係の問題だと思うのです。

 ・・・で最後に、本記事のタイトルに関することなのですが、私としては”ニヒリズム”という考え方がそもそもおかしいのではないか、と常々感じているのです。

 こうして教育学は、どのような教育論を唱えようと、それは結局、絶対的な教育論ではあり得ない、という、一種のニヒリズムに陥ることになってしまった。

(苫野、15ページ)

相対主義のニヒリズム

(苫野、17ページ)

・・・これは明らかに”100か0思考“だと思います(もちろん苫野氏の考え方がそうだと言っているわけではないです)。絶対的なものがなければ何もない、絶対的な正解がなければ正解なんてない、という考え方です。ちょっと齟齬があれば全部だめだとか(論理学っぽいですね)、現実世界がそんなふうに日々動いていないのは皆知っていると思うのですが・・・
 皆の考えが違うことはニヒリズムでしょうか? そんなこと当たり前だと思うのですが。皆の考え方が同じ方が気持ち悪くありませんか? むしろ違うことの方が大事な場合もあります。(身近な事実関係に関して皆の見解が異なるのは困りますが)
 そして苫野氏ご自身は、そういった”100か0思考“ではないものを見出していこうとされているのだと思います。ただその共通了解へ至る道筋に対し(西研氏の著作もそうでしたが)違和感を抱かざるをえないのですが・・・

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