「統語論」「意味論」という分類の問題点
戸田山和久著『哲学入門』(ちくま新書、2014年)分析の続きです。
これまでの内容は以下のマガジンで見ることができます。
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戸田山氏の議論の進め方には根本的問題がある。
「意味を理解する」とはどういうことかわからないままチューリングテストなどについて議論したところで「意味」とは何か明らかになろうはずもない。知能が何か分からないまま議論したところで、結局何も分からない。ただ生じている具体的事象を確認した上で「知能」という言葉がどういった事象を指し示すのか新たに定義することはできるかもしれないが(そうなれば、その定義にどれくらいの人たちが共感・賛同するのかという問題になってくる)。
いずれにせよ言葉の意味を理解しているからこそ、チューリングテストに用いる機械のプログラムを作ることができる。「こういう質問にはこういう答えを返す」とか想定しながらプログラムを組むのだと思う。さらに言えば、コンピュータの回路それ自体、こういう入力にはこう出力して・・・というふうに何らかの意図というか目的に応じて組まれているのである。
コンピュータにはただ電流が流れているだけなのではない。その流れ方に何らかの目的が組み込まれているのである。「形式的記号操作」(戸田山、47ページ)それ自体何らかの目的を持っている。
特定の記号操作ができるように電子回路やプログラムを作るとは、形式的記号の「意味」を知る必要があるし、論理記号にはその論理記号が示す「意味」というものがある。A∨B が「正しい」とは、A または B のどちらか(あるいは両方)が真である、だけどどちらが正しいのかまでは分からないという「意味」を持っているし、A∧B が「正しい」とは A も B も真だという「意味」である。電子回路に電流が流れるとはどういうことか、その「意味」を知っているからこそコンピュータが作れる。
そして、チューリングテストの審判役(戸田山、39ページ)も、言葉の意味を理解できるからこそ、コンピュータや人間が正確に回答できている・できていないの判断ができる。
つまり意味理解はチューリングテストを行うための”前提”なのである。チューリングテストで「意味」というものが明らかになるわけではない。現代のAIも、回答がより正確かどうか検証しながらそのプログラムを修正し続けているはずである(あるいはどのように自己修正するのかというプログラムか?)。
「マニュアルはよくできているので、ジョンが送り返す答えはフツーの中国語話者がする答えとすこしも変わらない」(戸田山、48ページ)・・・そんなすごいマニュアルをどうやって作れるのか不思議ではあるのだが。仮にもしつくれるとしても、中国語と英語それぞれの言葉や文章の「意味」を知っていなければ作れるはずもない。
さらにもう一つ論点がある。
こういった考え方にも問題がある。1+1=2も単なる記号の羅列ではない。例えば1個の石があり、もう1個石を追加すれば2個の石になる。そういった具体的事象と数字という「言葉」との関係なのである。論理はそこから一般化されるものであって、単なる数字の羅列ではない。
仮に「Aという場所に行けば次はBという場所に行く」という規則を作ったとしても、それは「Aという場所」「Bという場所」そして「行く」「移動する」「移る」といった言葉の「意味」があって成立するものなのである。単なる羅列ではない記号であるならばそれは「意味」を持っているのであると言えよう。
そもそも「統語論」自体、言葉の意味あって成立するものである。言葉の意味があるからこそ言葉と文法も成立するし、論理学の構文論も成立する。「統語論」「意味論」という分類それ自体に問題があるのではなかろうか。
これぞまさに「言葉の意味」があってこそ成立するものである。ちゃんとした文になるかならないかの根拠は、その文がそれに対応する事実・事態を指し示しうるのかどうか、その文が「意味」を持ちうるのか(ナンセンスではないか)なのだ。「意味を忘れて」しまったら統語論は成立しえない。
戸田山氏は、仮にジョンがマニュアルを丸暗記したとしても、「ジョンが中国語の意味を理解していないのは明白である」(戸田山、54ページ)としている。これに関してはまっとうな見解であるとは思える。
ただ私が思うに、いくらこういった”モデル”について考えてみたところで、「意味」とは何か結論にたどり着くことがないのではなかろうか。意味、言葉の意味とは何かというのは、私たち自らの経験から導かれるものであって、ロボットに意識があるかとか意味が分かるかとか、そういう話はその後の問題なのではなかろうか。