規準があって対象があるのではなく、対象があって規準が導かれる
M.ダメット『真理という謎』(藤田晋吾訳、勁草書房、1986年)掲載の「フレーゲの哲学(1967)」(44ページ~)を読んでいる最中である。本当は「真理(1959)」(1ページ~)に関心があるのだが、意味・意義、指示、対象、概念といった用語についてもう少し理解しておこうと読み始めた。
ダメットはフレーゲの考え方について次のように述べている。
・・・とりあえず「対象」があってこその真偽、と考えられてはいるということか(当たり前だけど・・・)。だが、この「対象」が何でありうるのか? そこのあたりまだ明確ではない。私たちの生活における真偽判断では、この「対象」とは知覚経験でもありうるし、心像でもありうる。現実世界における実在物でもありうるし、状況や出来事でもありうる(もちろんそれらも究極的には私たちの知覚経験としてしか現れないのであるが)。架空の物語内の問題であれば物語内の架空の人物でもありうる。このあたりフレーゲ(やダメット)はどう理解しているのだろうか?
そして、ここで忘れてはならないことがある。対象として同定するための規準は何によって知られるだろうか? それは「対象」によってである。例えば動物の種を同定する場合においても、(近い種と比較することはあっても)最終的にはその「対象」を観察した上でそこから見いだされるものである。
拙著、
哲学的時間論における二つの誤謬、および「自己出産モデル」 の意義
http://miya.aki.gs/miya/miya_report17.pdf
9ページからの引用である。
・・・つまり指示される「対象」があって規準はそこから後付けで導かれるということなのだ。しかも上述の「規準」とは、類似するものがあってそれと区別する必要があるとか、あるいは何らかの要請(例えば学術的な用語の厳密さなど)があって初めて考えられるものであって、そうでなければいちいちフレーゲの言う「意味」など考えたりはしないのである。
この順番を間違えるとパラドクスに陥ってしまう。