思考とは何か明確でないまま思考の限界について議論しようとしている:野矢茂樹著『ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を読む』分析(その1)
先日、ラッセルのパラドクスに関して:「二階の述語論理」の問題点
( http://miya.aki.gs/miya/miya_report34.pdf )を書きましたが、野矢茂樹著
『ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を読む』(筑摩書房、2006年)分析の準備のためでもあります。
野矢氏は、
とされていますが、私の見解は逆で、根本的なところで誤っていると思っています。
これからじっくりと、『ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を読む』の分析をしていきます。本文の引用部分はすべてこの本からのものです。
1.言語の有意味性の限界はその言語に対応する具体的対象により画定される
野矢氏はいくつかの事例を挙げて説明されている。
・・・というとき、私たちは「刺身のあんこのせ」というものを空想したり、絵や図を描いたり、場合によっては再現することさえできる。一方、
・・・というとき、私たちは「丸い三角」を想像することもできないし、図にして描くこともできない。当然再現することもできないのである。上記「空虚な観念」というのはそういうことなのである。(ならば「丸い三角」とは観念であるのか、そこさえも疑わしい・・・)
仮に、私たちが「丸い三角」というものを再現できたり想像できたりするのであれば、それはもうナンセンスではないし矛盾でもない。誰もナンセンスであるとは言わないだろう。
つまり、言葉に対応するなにがしかの具体的対象が現れうるのかどうかが問題なのである。
のとき、私たちはウィトゲンシュタインや2(個の何か)や、机やお茶について想像したり指し示したりすることはできる。しかし上記のような言葉の組み合わせが指し示す一つの具体的対象(ヒュームの言うような観念、あるいは印象でも良い)を見出すことができない、それがまさに「ナンセンス」なのである。
「丸い三角」もそうであるように、「丸い」「三角」はそれぞれ描いたり想像したりはできる。しかし「丸い三角」というものを一つの具体的事物として想像したり描いたりすることができないのである。
あるいは「直線4本からなる三角形」や「平面において交わる平行線」といったふうに、再現もできないし図に描いたり想像したりすることもできない、これらを矛盾とも呼ぶ。
野矢氏は
・・・と結論づけられているが、(1)について野矢氏は何の回答も出せてはいない。そして(2)については私がここで説明したように、言葉に対応する具体的対象の有無によって画定される、というのが正しい結論であると言えよう。つまり、
という見解は的外れなのである。もちろん有意味なのか無意味なのかと問うとき、(ここにおいては)言語表現の有意味・無意味を問うているのだから、当然言語がかかわっている。しかしその有意味性をもたらすものは、その言語に対応する具体的対象(物でも事象でも知覚経験でも良い)なのである。
2.思考とは何か明確でないまま思考の限界について議論しようとしている
・・・そもそも思考不可能なことを思考する、という言葉それ自体がナンセンス(あるいは矛盾)ではなかろうか? それはウィトゲンシュタインが「思考」ということを厳密に捉えていなかったからこその表現ではなかろうか。野矢氏は、下のように説明されている。
話を整理してみよう。「丸い三角」に対応する具体的対象物・事象を見出すことが私たちにはできない。想像すらできない。当然描けない。
しかし、「丸い三角」という言葉を思い浮かべたりしゃべったり、文字として書いたり読んだりはしている。そして「丸い三角」というものはあるのかな・・・?と想像をめぐらしその対象を探す試みをしようとしたりはできる。
問題は、これら一連の具体的経験において、何をもって「思考」「考える」とするのか、そこが明らかでない、ということなのである。そしてさらに問題なのは、
「”思考”そのもの」「”考える”そのもの」というものは一つの個別的事象(あるいは一つの観念)として(私たちの経験として)現れることがない
ということである。「三角」は具体的に三角を描けばよいし、「刺身のあんこのせ」を想像したり描いたり再現したりすることができる。
では「”思考”そのもの」「”考える”そのもの」はナンセンスな言葉なのか、と聞かれればそういうわけでもないのである。既に述べたように、「丸い三角」という言葉を思い浮かべたりしゃべったり、文字として書いたり読んだり、「丸い三角」という言葉に対応する対象を探す試みをしたりすることは可能である。その上で、これらの具体的経験のうち何をもって「思考」「考える」とするのか、そこは定義の問題なのである。あるいは定義とまではいかなくても、どこまでを思考と呼ぶのか人それぞれの見解の問題であるとも言える(ヒュームの言う「様相観念」に近いのかもしれない)。
さらに言えば、言語を伴わない具体的イメージの組み合わせやら、スポーツをするときなどの一瞬の状況判断やら、これらを思考と呼ぶのかどうか。
つまり、思考という言葉が(私たちの具体的経験における)何を指すものなのか、どこからどこまでを「思考」と呼ぶのかという言葉の定義の問題なのである。
野矢氏、ウィトゲンシュタインともに、この問題を見逃したまま、「思考の限界」と「有意味性の限界」とを混同したまま議論を進めてしまっているのである。