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竹田現象学における「本質観取(本質直観)」とは実質的に何のことなのか(その5)

※ これまでの記事はこちらへどうぞ
引用部分は、竹田青嗣著『現象学入門』(NHKブックス、1989年)からのものです。

今回の記事は、欲望相関性の問題にも関わってくると思います。

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6.経験すべてが原的に与えられたものである/意識の自由・不自由が「不可疑性」の源泉ではない

 ここでは上記(4)についてさらに説明していきたい。
 意識というものはない。自由になる・自由にならない、というのも恣意的な分類であり、私たちの経験はただ現れ推移していくだけである。「思考」とは言うものの、私たちはただ現れた、閃いた言葉や事象をただ書き連ねているだけである。本稿も、ただ現れてくるものをここに書き記しているだけである。
 先に説明したように、想像といえどもただただ現れて来る心像や言葉であるにすぎない。私たちはただ”想像してしまった”だけである。たとえば学校で美術の時間に「架空の動物について想像して絵をかいてみましょう」と言われ、一生懸命想像しようとする。想像できない場合もあるかもしれない。とりあえず何か想像できれば、それを絵にしようと試みる。その作品に満足がいくのかどうか保証もない。これらも自由・不自由の話ではない。心像が現れれば良し、さらにそれを気に入ることが出来れば幸運だっただけで、現れなければそれまでである。
 ここまでの私の説明から、以下の見解自体が妥当ではないことがご理解いただけるであろうか。

 現象学の考えで決定的に重要なことは、<知覚>表象だけは、記憶、想起などと違って意識の自由を超えてやってくるものであるために、対象の妥当の源泉になる、ということだ。

(竹田、218ページ)

 まとめれば、
(1)「意識」というものはない。経験は現れる。経験が現れている状態のことを「意識がある」としているのである。つまり意識の外や彼岸というものもない。意識の自由・不自由という表現も無効である。
(2)知覚経験のみでなく、記憶、想起、想像などに伴う心像(あるいは言語)も、ただ具体的経験として現れるものである。経験すべてが原的に与えられるものであるとも言える。すなわち意識の自由・不自由が明証性・不可疑性の源泉なのではない。

 少し脱線するが、「意志」に関しても、実際の具体的経験を振り返ってみれば、「意志そのもの」が対象化できないものであることがわかる。
 野球の試合を見て何かぞわぞわ(わくわく?)するような感覚を感じ、「野球をやりたい」と親に対し言語表現し、道具を買ったり野球をしている人たちに自分も加わろうとしたりするのも、一連の経験である。
 「意志」というものは具体的経験として現れるものではない(言葉はあるが)。「意志そのもの」の本体を見つけようと探しても見つかることはないであろう。何らかの情動的感覚・体感的な感覚、様々な心像、そして「野球をしたい」という言語表現(もし実際に言語として書いたり喋ったり思ったりしたのであればだが)、さらには実際の行為、そういった一連の経験を総合して「意志」というふうに呼んでいるのである。「意志」というものは単一の事物・事象に還元できるものではない。その境界(=意志という言葉が含む経験の範囲)が恣意的なものであるがゆえに(例えば行為が含まれない場合もあろう)、見方によって「意志」があったともなかったとも言い得るのである。これは「思考」「自由」あるいは「美」「自己」「自我」などといった言葉に関しても同じことが言える。「リンゴ」には「リンゴそのもの」の対象物がある。しかし「意志」「自由」「美」「自己」などにはそれがない(それゆえ、「自由意志」「自由意思」の問題について論じるときは注意が必要である)。
 私たちの行為には常に(あるいは多くの場合)「意志」が背後にあると考えがちであるが、「意志そのもの」が背後にあるわけではなく、より詳細に分析すれば、様々な具体的経験が要因として現在の行為や気持ちに影響を与えているのだと因果的に分析することしかできない。
 つまり「意志」というものがあって、それが私たちの行為などに影響を与えているという事実を見出すことはできないのである。「意志」を「欲望」と言い換えることもできるし、もちろん「意識」についても同様である。
ただ「野球がしたい」とか「カレーが食べたい」と言語化することによって(言語化したという経験から)、新たな心像やら行為やらが連鎖的に誘発されたりもする。意志の言語化が私たちの行為に多大な影響を与えうるという因果的分析は可能であろう。
 いずれにせよ、「意識の自発的作用」(竹田、70ページ)「心の恣意的な生産物」(竹田、71ページ)というものはいったいどこにあるのだろうか?
 要するに意識の自由・不自由が問題なのではないのだ。それは明証性というものの根拠にはなりえない。先ほども述べたが、当然不可疑性の根拠にもなりえない。
 明証性とは、経験をしたことその事実性に対するものなのである。
ある物が見えた、それを「リンゴ」と呼んだ事実。ひょっとしてそれが精巧につくられたリンゴの模型やホログラムかもしれないし、その判断が間違っている可能性もある。しかしそう判断した事実は疑うことができない。これが事実に対する不可疑性なのである。
 竹田氏の説明では、真理の根拠と経験した事実の不可疑性とが混同されてしまっているように思えるのである。


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