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理由を問うことに正当性があるのか

 今回は、西研著『哲学的思考』(筑摩書房、2005年)における本質観取について検証してみたい(『ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を読む』の方も少しづつ進めていますのでそのうち公開します)。

するとソクラテスは、自分が問うているのは個々の徳ではなくて「徳とは何か」ということだ、さまざまな徳とされるもののなかの「共通して変わらないもの」を見つけ出すことが必要ではないか、と返す。

(西、396ページ)

・・・このあたりの議論についての私の違和感は、次のレポートで詳細に説明している。

「イデア」こそが「概念の実体化の錯誤」そのものである ~竹田青嗣著『プラトン入門』検証
http://miya.aki.gs/miya/miya_report11.pdf

 『哲学的思考』の399ページから、西氏は本質観取の具体的事例について説明されているのであるが・・・ただ明らかなことは、本質直観(観取)と呼ぼうと呼ぶまいと、私たちは他者とのコミュニケーションを通じて、言語使用の客観性というものを確認していくしかない。

たとえば「男性のエロチシズムは女性の美の神聖さを犯し、けがすものだ」というバタイユの命題を耳にしたとしよう。そのとき私たちは暗々裏にみずからの体験を想起しつつ、その命題の当否を検証しようとするはずである。そして体験による検証以外に、この命題の当否を検証する手段は存在しない。

(西、398~399ページ)

・・・西氏の言われるように、他者の言葉を自らの体験(想像含む)により理解する、それこそ言語理解のプロセスなのだと言えよう。結局それしか方法はないのだから。ただ、その結果として「想像つかない」「共感しない」という場合があっても良いとは思う。

 しかし具体的事例に移ると西氏の議論には違和感を抱かざるを得ないのである。西氏は、「死の恐怖」の本質観取について説明されている。

「だいたいの人にとって、死は怖い。しかしなぜ死は怖いのだろうか。死の恐怖のなかにいったい”何”を感じ取っているのか、をあらためて考えてみよう」

(西、399~400ページ)

・・・問い方がおかしくないか? 「死の恐怖」とは死について考えた時、あるいは自らの又は他者の死に直面した時などに感じる情動的感覚であろう。その感覚を可能な限り何らかの言葉で言い表し、伝えあうことはある程度は可能かもしれない。難しそうではあるが・・・
    死が今の自分にどれくらい、あるいはどのように差し迫っているかにより、感じ方は違ってくるだろうし、それが誰の死かによっても全く異なってくる。それらすべてひっくるめて「死の恐怖」として議論できるのかも怪しい。
 さらに西氏はここで「なぜ死が怖いのか」という理由、そして「死」というものが引き起こしうる事象を想像してみようという議論へ話をすり替えてしまっている。

参加者の一人、二十代の女性はこう書いている。「自分が信じている「日常性」というものが簡単に崩れる、消えてしまうという不安。それが何なのか実体を知ることができない、理解できない、どうしようもない怖さ。不可避であり、自分の身をそのような訳の分からないところに必ず置かねばならないのだと考えると怖くて仕方がない」

(西、400ページ)

そして西氏は続ける。

死は日常にとって、堅固に見える日常を簡単に吞み込んでしまう、不可解な混沌の威力として感受されているのだ。

(西、400ページ)

でもなぜ、「不可解なものに呑み込まれること」は怖いのだろうか。ぼくはそれを「コントロール感覚の喪失の恐怖」といえると思う。

(西、400ページ)

・・・連想ゲームのようになっている。誘導されている感も否めない。この後、複数人で議論を継続した結果として、

「究極なコントロールの喪失」「あらゆる共同性からの追放」「あらゆる可能性の喪失」という三点で、死の恐怖はだいたい抑えられるのではないか、という結論に至りそうだったが、また別の意見も・・・(後略)

(西、402ページ)

語れば語るほどずれていく感覚を抱くのは私だけであろうか・・・?
 私が思うに、怖いのは「なんとなく怖い」「ただ怖い」「ひたすら怖い」のではないかと思うのだが(先に述べたように自分がおかれた境遇により感じ方は異なるだろうが)・・・西氏は、そこに「理由づけ」をしようとしているように思われる。西氏が探ろうとされているのは「死が怖いと思う理由」における共通認識なのである。
 別の言葉で言えば、死が何をもたらしうるのか想像をめぐらし、それらの事柄のうちどれに一番恐怖を感じるのか、という議論だとも言える。他者と話すことで自分がこれまで想像しなかった事柄に気づくかもしれないし、これまで感じなかった別の恐怖というものが現れて来るかもしれない。そういう面において意義があると言うことはできる。
 ただ、死の及ぼしうる影響とそれに対する気持ちを「本質」と呼んで良いのかどうか(見解は分かれそうだが)・・・語れば語るほど別物になっていくように感じるのは私だけだろうか?
 さらに、理由を探すことに正当性があるのだろうか? もちろん間違いだと断言もできない。しかしこれらは皆後付けの説明である。試合で勝ちたい、絵を描きたい、死が怖い・・・私たちはただそう思うだけで、そこに理由をつけたとしても結局後付けの理屈なのではないか? 理由が必要なのであろうか? 共通する理由がなくてはならないのだろうか? 死に直面してとっさに「怖い」と思うことがあるかもしれない。しかしいちいち「理由」を考えながら怖がるであろうか?
 もちろん試合で勝てば褒められる(ことも多い)し、絵を描いて人に褒められれば良い気がする。しかしそれは結果である。褒められることでモチベーションが上がるのも事実である。しかしそれ(承認:西、405ページ)を「本質」と言い切ってしまっても良いのであろうか? 
 ついつい競ってしまうこともある。負ければ悔しいし勝てば嬉しい。ただそれだけの場合もあるのだ(もちろんそれだけだと断言することもできないが)。業だとしか言いようのない場合もあろう。
 そして繰り返すが、「理由」が「本質」なのだろうか?

<関連するブログ記事>

「意味の時代」から、「わかんないの時代」へ。https://note.com/sawadakinou/n/n4998186c38c7

<参考レポート>

竹田現象学における「本質観取(本質直観)」とは実質的に何のことなのか
http://miya.aki.gs/miya/miya_report37.pdf

※ うまく見れない場合は、以下のページからダウンロードしてみてください。
経験論研究所:レポート一覧 

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