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「普通人の哲学」について考える

 大森荘蔵著『時は流れず』(青土社、1996年)は、結果として行きつく見解に対してどうしても同意できないのであるが、思考の方向性というか、その気持ち(?)に共感する部分もある。

普通人が他者についてあれこれ述べ考えるときの意味を模擬的に制作して、それに対して哲学者が提出するあれこれの難癖が的外れであることを示そうというもの

(大森氏、12ページ)

哲学をいわばエポケーして普通人の生活に専念すること

(大森、187ページ)

・・・とある。普通というものの定義の問題はあるが、奇怪な哲学理論をいったん忘れ、自らの日常生活に立ち返ってみようというものであると思う。哲学者だって日常生活においては、哲学理論など関係なく他者や様々な物体を認識し、それが存在していると思い、時計を見つつ時間に追われながら生活している。哲学と日常生活とが乖離していることが哲学の正当性を失わせていると思うのだ(ここで間違ってはならないのは、実用と日常とを混同しないことだが)。
 ヒュームの下の説明が最も的確に表現していると思う。

「理性」に意見をたださなくても、つまり、われわれの考えを哲学上の原理によって考えめぐらしたりしなくても、別個の持続的な存在を対象に帰属させることができる、ということである。実際、哲学者たちが、心から独立な対象についての信念を確立するためにどんなに納得のゆく論証を示しうるのだと思ったところで、明らかに、こうした論証を知るのはほんのわずかな人だけであって、子供や農民、それどころか人類の大部分が、ある印象には事物を属させ、ほかの印象にはそれを否定するようになるのは、そうした論証のためではないのである。

(ヒューム『人性論』土岐邦夫・小西嘉四郎訳、中央公論社、97ページ)

しかし大森氏の見解も私たちの日常とかけ離れた認識となってしまっていると思う。大森氏も結局は哲学者の哲学をしてしまっている。
 過去想起が「命題的であり言語的」(大森、33ページ)だという発想も日常生活から乖離している。私たちは過去の情景を思い出せるし(ある程度は絵に描いたりもできる)、それらを言語表現や時間(昨日とか、昨年とか、昔とか)とリンクさせている。こうした日常生活における具体的経験を否定してしまっては本末転倒である。
 常に「生活のなかでの各人の想起経験を談合調整」(大森、223ページ)しているわけではない。今日の朝にお味噌汁を飲んだという記憶は(その味とともに)、今目の前の知覚経験と同じく疑いえない情景として現れるのだ(同じような感覚として現れるわけではないにしても)。

普通人は最も実際的で容易な道を選ぶだろう。理由や根拠などは全く無視して、他人称命題の意味を対応する自称命題の意味に近似的にほぼ同一のものとして実生活の中で実際に使用してみるのである。

(大森、117ページ)

ここで「命題」云々は別にして・・・理由・根拠などいちいち検証しながら生活しているわけではない、というところには共感する。
 しかし、私たちは日常的に根拠や理由を無視しながら生活しているだろうか? 大森氏の見解は少々極端で、これも日常生活から乖離していると言わざるをえない。
 では哲学と日常生活との乖離はどこにあるのか・・・と考えたとき、私自身の見解としては「原理的思考」ではないかと思うのだ。「類推説」(大森、110ページ)、「行動主義」(大森、112ページ)というふうに、単一の要素からすべてを説明しようとしたり、「~主義」といった首尾一貫性・論理的完全性を有した一つのユートピア的理念型のようなものから説明しようとしてしまうのだ。現代の哲学でも「自然主義」とか(実際の経験と乖離している)「経験主義」とか、そういった「~主義」という理念を用いて分析しようとすることで(レッテルを貼るというか)現実と乖離が生じているように思える。
 私たちは日常的に様々な知覚経験を根拠に物事を理解している。そしてその理解を覆す事態が生じることもある。しかしそれらも知覚経験によって知らされることに変わりはない。それらの具体的経験の因果的理解を積み上げながら(個々の経験則を蓄積しながら)理解を深めているのである。「原理」ではなく個別の「経験則」の積み重ねではないか、私はそう思うのである。「試行錯誤の試し打ち」(大森、149ページ)とは理由・根拠の無視ではなく経験則の積み重ねではないかと思うのだ。
 もちろん、私自身が展開している経験論的理論についても(「~論」と言わざるをえないところが苦しいのだが)、哲学に全く無関心な人たちが読んで直ちに理解できるような内容ではない。既存の哲学を考慮に入れた上でそれらを批判しながら自らの哲学について説明しているからだ。ただ、私たちの日常的な具体的経験から乖離して哲学は成り立たないとは思っている。


<参考レポート>

『社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」』第Ⅱ部の批判的分析
~意義・価値理念と事実関係、法則と個性的因果連関、直接に与えられた実在と抽象に関するヴェーバーの誤解

http://miya.aki.gs/miya/miya_report23.pdf

・・・「試行錯誤的因果関係構築プロセス」(36ページ~)について説明しています。

ヒューム『人性論』分析:「存在」について
http://miya.aki.gs/miya/miya_report30.pdf

・・・ヒューム自身が「原理的思考」にはまり思考の袋小路に入り込んでしまっています。

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