心の記憶に刻まれた日々
緊張しながら玄関の扉を開けると、居間から母方のばあちゃんがゆっくりと歩いてきた。
「よく来たね」
くしゃくしゃな顔で微笑んだ。
嗅ぎなれた芳香剤の匂いと、幼い頃から何度も見てきた笑顔がそこにはあった。
ばあちゃんは男になった僕を見つめた。
何か言われるかもしれない。
僕を否定するかもしれない。
そう思ったけれど、違った。
早く中に入りなさい。いつ来るかと思って、ばあちゃん待っていたんだからと、話しながら居間に戻っていった。
僕は泣きそうになった。
なんでだろう。
安心したからかな。
そう思った。
そのあとすぐ、ばあちゃんと他愛のない話をした。
あんたも煙草を吸うのかい。ばあちゃんも吸おうかな、ほんとはダメだけど。
年寄りになると、こういう質素なものを食べてれば十分なのよ。あんたはこんなもの食べないでしょうけど。
もっと早く連絡寄越してくれれば、銀行からお金をおろしてきたのに。
あんたは子どもの頃から変わらないねえ。
十分長生きしたから、早くじいちゃんのところに行きたいよ。
もう帰るのかい。ゆっくりしていくなら、寿司でもとったのに。急に連絡寄越すもんだから。
ばあちゃんは、耳が少し遠くなっていた。
僕の声が聞き取りづらいみたいで、何度も聴き返してきた。
だから僕は、ずっと笑って頷きながら、ばあちゃんの話を聞いていた。
「またね」
この言葉だけ僕は、はっきりした声で言って、ばあちゃんの家から帰った。
ちゃんと聞こえたみたいだった。
これが、最後に母方のばあちゃんに会った日の思い出だ。
母方のばあちゃんと僕は、血がつながっていない。
それを知ったのは、僕の両親が離婚したときだった。
知ったからといって、僕のばあちゃんに対する気持ちは変わらなかった。
親戚のなかで、いちばん僕のことを理解してくれたし、可愛がってくれたからだ。
ばあちゃんが亡くなったあと、母づてにこんな話を聞いた。
「孫たちは、みんな同じように可愛いと思ってきたと、伝えてほしい」
僕は思った。
「大丈夫。俺、子どもの頃からちゃんとわかってたよ」
対照的だったのは、父方のばあちゃんだ。
「恥ずかしくて、一緒に外を歩けない。その姿で、うちの敷居を跨がないでほしい」
涙ぐみながら、ばあちゃんは僕に言った。
泣きたいのは、僕のほうだった。
でも、仕方がないと思った。
わかってもらえなくても、何を言われたとしても、僕の生き方は変わらないことを自分がいちばん理解していたからだ。
父方のばあちゃんと僕は、血がつながっている。
けれども、母方のばあちゃんとは違って、可愛がってもらっていると感じたことがなかった。
これが、最後に父方のばあちゃんに会った日の思い出だ。
人それぞれ愛しかたに違いがあるとわかったのは、それから十年以上経ってからだった。
二人のばあちゃんの愛しかたは、対照的だった。
だからわかりづらかったけれど、今ならわかる。
僕は二人のばあちゃんから深く愛されてきたのだ、と。