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~井波彫刻宗家「番匠屋」16代目が語る~「井波彫刻」と「番匠屋」が時代を乗り越え続いた理由と“感謝”

<はじめに>

「なりわいノート」特集第一弾は『井波の200年超企業』!!
富山県の長寿企業ベスト17位と32位にランクインする、井波が誇る老舗2社を取材し、創業からの歴史や、現在どのような想いで経営されていらっしゃるかを伺いました。

記念すべき1社目は、井波彫刻宗家の『番匠屋』さんです。
16代 田村与八郎さんから勉強になるお話をたくさん伺いましたので、記事としてまとめました。ぜひご一読ください!

<番匠屋とは>

宝暦13年(1763年)の火災による瑞泉寺の再建に際して、東本願寺の御用彫刻師・前川三四郎が井波に派遣され、のちに番匠屋9代目となる北村七左衛門ら4人の拝領地大工が彫刻技術を伝授されたことが井波彫刻、ならびに番匠屋のはじまり。
創業1774年(安永3年)。井波彫刻の宗家。
以降、専業彫刻師として代々「田村与八郎」を襲名し、井波彫刻界を牽引している。

① 井波彫刻が江戸時代から現在まで続いているのは、なぜか?

「私たち番匠屋は、井波彫刻とともに、組合とともに歩ませてもらった。」

番匠屋16代目、開口一番の言葉です。
私たちは決して長寿企業ではなく、井波彫刻の発展なしに番匠屋はなかったと、謙虚な姿勢でお話を始められました。

さて、井波のほかにも「彫刻のまち」は全国に複数存在していますが、宮大工から分業して彫刻師が育ったケースは非常に珍しいそうです。

井波彫刻の始まりは1774年(安永3年:江戸中期)。東本願寺の御用彫刻師である前川三四郎から北村七左衛門(のちに番匠屋9代目となる)はじめ加賀藩お抱えの拝領地大工4名が彫刻を教わったことを機に、井波に専業の彫刻師たちが誕生していきました。
1774年以降、井波が「彫刻のまち」として続いた理由の一つに、瑞泉寺が「浄土真宗だった」ことが挙げられます。禅寺とは異なり、浄土真宗のお寺は大ホールのような形で、彫物の欄間や組物などが多用された華やかな建築が特徴です。もしも瑞泉寺が禅寺だったら今日まで井波彫刻があったか疑問が生まれる、と16代目は語ります。

すなわち井波彫刻の発展の基礎は「瑞泉寺」。瑞泉寺が井波彫刻の生みの親であり育ての親、そうしてある時期には親離れをしていきます。
16代目の調査によると、井波彫刻師の仕事は社寺彫刻にとどまらず、富山県下の曳山彫刻、特に八尾や小矢部、城端などに江戸後期から明治・大正にかけてその足跡が見られます。曳山という地域の文化に助けられた井波彫刻は、瑞泉寺を中心に培ったその技術力を研磨し、新分野で能力を発揮していったのです。

瑞泉寺の山門

さらに明治の匠の時代には販路拡大のためにと「住宅欄間」の制作が始まります。実際に欄間需要に芽が出たのは昭和になってからでしたが、明治の時代から新しい分野を開拓するために一生懸命に技術を磨いた時期があったからこそ華が開いたと16代目は強調しました。

これらの流れから、井波彫刻師たちは伝統を受け継いできたのではなく「伝統を創ってきた」ことがわかるでしょう。

そしてもう一つ重要なことは、井波彫刻は決して『芸術品』ではないということです。あくまでも建築の『装飾彫刻』。南砺市の『伝統産業』です。美術や芸術を批判しているわけではなく、産業の場合は生活に必要なものを多くの職人が共同作業で制作していくため、職人人口や仕事が持続しやすいのです。

② 職人ゆえの世代交代 ~門人や養子へ後継・番頭一家のサポート~

番匠屋の創業年は1774年(安永3年)。
初代番匠屋が拝領地大工として井波に定住した1594年(文禄3年)を創業年と定めることもできるでしょうが、「番匠屋は井波彫刻とともに」という16代目の姿勢からもわかるように創業年はあくまでも井波彫刻の始りと同一となります。
初代から8代目までは彫物大工でしたので彫刻と無関係ではなかったのですが、彫刻を本業として始めたのは9代目の北村七左衛門から。今も瑞泉寺の一番古い作品として勅使門で存在感を示す『獅子の子落とし』の製作者です。

北村七左衛門作『獅子の子落とし』

井波には今なお200名の彫刻師がいますが、これほどまでに人数が膨らんだ背景には「共存共栄」の精神があります。井波彫刻は大正時代まではほとんどが『合作』で、全員で一つの作品制作に取り掛かっていました。それが後継者づくりにもつながったと言われています。

江戸の頃には、彫刻師の家系に生まれた者は10代から現場へ同行し、ノミはふるえなくても掃除などの雑用をして、師匠の後ろから常にハイレベルな学びを得ていました。井波彫刻の祖であり、のちに番匠屋9代目となる北村七左衛門も、前川三四郎から手ほどきを受けた当時は17歳。現代の感覚ではなかなか理解が難しいですが、平均寿命が40代という時代を考えると、6歳にはその道に入って、17歳はすでに一人前という時代だったことが推察できます。

そしてこの北村七左衛門(番匠屋9代目)ですが、番匠屋8代目とは親子関係のない門人である説が濃厚であると、16代目の調査によりわかってきました。七左衛門は勅使門をはじめとした曳山関係の作品すべてに「北村七左衛門」と名前を明記していましたが、寛政11年の八尾の曳山に初めて「番匠屋与八郎」という名前を使っています。つまり寛政11年前後に8代目が亡くなり、門人であった七左衛門が9代目を継いだと見るのが自然です。ゆえに『獅子の子落とし』を制作した際にはまだ番匠屋9代目ではなく、北村七左衛門という一人の彫刻師であった。これを井波彫刻史の通説としたいと、16代目は強調しました。

徒弟制度を活用する職人の世界では、後継者がいなかったら養子に跡を継いでもらうということは珍しくありません。優秀な弟子を娘婿に迎えいれることも多く、番匠屋の北村家にとっては岩倉家がそれにあたります。番匠屋は七左衛門以降、10代目、11代目が早死にをして一時お家が途絶えてしまう時期があります。その間、番匠屋を支えたのが岩倉家でした。10代目・11代目とは義兄弟であった岩倉理八は外孫を弟子として育て、番匠屋12代目として復権させています。

ちなみに、この番匠屋12代目から現在と同じ「田村」姓が使われています。11代目までは「北村」でしたが、12代目から突然「田村」となった理由は依然としてわかっておらず、現在も調査中とのことです。

これらのことから、必ずしもその直系が番匠屋をつないできたということではなく、門人による承継、また岩倉家を含めた地域の方々の助けがあって、今日の番匠屋17代目(息子さん)までの系譜がつながっていることがわかるでしょう。

③ 番匠屋の苦難 ~井波彫刻が太平洋戦争をどのように乗り越えたか~

井波彫刻とともに栄えてきた番匠屋ですが、これまでに廃業の危機が二度あったそうです。

一度目は、16代目のお祖父さま(14代目)が大正10年に亡くなった際のこと、お父さま(15代目)はまだ16歳でした。お父さまは大変な勉強好きで頭がよく、将来は学校の先生になりたかったようですが、担任の先生がお祖母さまにそのことを伝えると「ここまで続いた家を途絶えさせては困る!」と猛反対しました。どうしたらお父さまが15代目を継いでくれるかと考えたお祖母さまは「借金があったら可哀想だ!」と、大正12年に当時暮らしていた家を売却し借金をすべて返済しました。

その後、15代目は近所で間借りをして番匠屋の復興に力を尽くしていましたが、その様子を見て立ち上がったのが地域の有志の方々でした。「伝統ある番匠屋を上新町(かみあらまち)から出してはいけない!」「番匠屋を残したい!」という地域の方々は、現在番匠屋が居を構える37番地を売りに出していた家主に「この家を番匠屋に譲ってくれないだろうか」と懇願して、15代目は大幅な割引価格で現在の家を買い取ることができたそうです。番匠屋には今もその当時の領収書が残っています。
「近所の人に感謝の気持ちを持って仕事をしてくれ」というのが15代目であるお父さまの口癖でした。16代目はそのお話を聞いた際、昔の人の情緒に大層感激し、15代目の言うことをしっかり守ろうと胸に刻み、その想いを17代目にも伝えています。

上新町の通り

二度目の危機は昭和19年、太平洋戦争の真っ只中です。国全体の非常時に仕事などあるわけもなく、15代目は一時的に組合を休会しました。
その当時、井波に綿貫栄さんという町長がいました。彼は「井波の産業を担う彫刻師を戦争で亡くしてしまうのは悲しい」と自身の財力をなげうち井波に軍需工場を作ったのです。若い者は徴兵を免れることはできませんが、ある程度の年齢の者ならば軍需工場で勤務していれば徴兵されることはありません。そうして町の施策として職人たちを守ったのです。
その後、昭和23年に組合が再開。5年間の休会を経て15代目が組合に戻ったとき、当初80名いた組合員のうち50名が復帰をしました。今日明日の食い扶持にも困る戦後の時代、まだそれほど仕事がないであろうことを考えると、この数値は驚異的だと16代目は驚きと感動を伝えました。

おそらく軍需工場に行きながらも「休んでいると腕が落ちるから」と職人は皆一生懸命に技術を研磨して、それが50名もの復帰につながったのではないかと16代目は語ります。その当時の職人の意欲がなければ、綿貫栄さんの想いがなければ、今日の井波彫刻があったかはわかりません。

④ 最後に ~「信仰のまち井波」~

社寺彫刻はじめ、曳山、欄間で栄えてきた井波彫刻。
その特徴は、職人の共同作業で生み出された装飾彫刻であり、伝統産業だということ。そして、浄土真宗はじめ各地の文化に寄り添い・助けられながら、それぞれの職人が切磋琢磨し、技術を研磨してきたこと。

これらを端的に表現すると「井波彫刻は浄土真宗も兼ねた“信仰”に助けられてきた」と16代目は語ります。しかし、今では「信仰のまち」という言葉は段々と薄れていき「観光のまち」「美術のまち」のように書き換えられています。
決して昔ながらの「信仰」を押し付けたいのではなく、現代の若い人にあう「信仰」と同等のものをどのように創っていくのか、信仰心に近い感覚をどのような形で創造していくかが今後の課題となるでしょう。

「伝統を創ってきた」井波彫刻なら、必ず令和の時代にあった新しい彫刻商品を生み出すことができるはずです。その一つのきっかけとして、井波彫刻の歴史を学び直し、系譜を紐解くことで、未来へつながるヒントが見つかるのかもしれません。既に第一線の職人を引退した16代目が井波彫刻史の調査に力を入れるのは次世代を担う若手彫刻師へのエールでもあります。

薫り高い文化の街 井波

最後に、瑞泉寺や曳山から先人の作品を鑑賞できるということは、それを所持し維持管理してくださる方々がいるからです。維持管理にはものすごい労力とお金がかかることでしょう。私たちが今日、祖先の作品を鑑賞し学び、つながりを実感できることということは地域の方々のお陰様です。本当に頭が下がりますと、16代目は感謝の言葉を述べました。

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