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福沢諭吉「教育の事」後半~子どもの教育を全て学校に任せるな
こんばんは!!
いやあ、後半の現代語訳疲れました。諭吉さんちょっとくどい(笑)
以下の記事の続きで、「教育の事」の後半になります。現代で言うなら「仕事人間」の親に関して後半では述べています。
要約
仕事(公務)で忙しくて家庭を顧みる暇がなく、家庭外では活発だが、家庭内では怠惰で、家庭内の事情を全く把握しようとしない者を私は「公務家」と名付けた。「公務家」の家庭は公を以て私を束縛するものというべきである。この弊害は家庭に収まらず広く社会にまで影響を与える。
近年、政論家が民権が弱くなり、政府の専制が強まっていると主張している。人間社会は家庭が集まったものであり、その原因の元は家庭にあると言えるだろう。「公務家」の家庭で、公務に対して卑屈になる習慣を養成された者が、社会に出れば公は私を束縛すべきものといってはばからないようになるだろう。社会を改革したければ、まずは家庭を改革すべきだろう。
「鬼蛇父母」にしろ「公務家」にしろ社会の上流階級の者であり、子どもに学を身に付けて欲しいと思っているが、その方法は子どもを学校に寄宿させて安心して放置している。子どもを学校に寄宿させる様々な口実があるが、どれも筋違いである。
結局、子どもを学校に寄宿させる者の内心は、自分で子どもを教育しこれに注意するのが面倒だということに過ぎない。子どもに学問を教えるのは教育の一部分でしかなく、寝食・礼儀・運動・養生などの教えがあり、家庭教育が担うべき部分はある。寄宿させるにせよ、しないにせよ、少しでも父母の心身を労し、家庭の教育が大切であると思って欲しいものである。
現代語訳
また、私が「公務家」と名付ける一種の主人がいる。放蕩にふけるわけではないが、何かと美しく大きなものを好み、美しい衣服を着て、家具を飾り、家を出るのに馬車を使い、美しい家に住んでいる。世間との付き合いでは、大金を一気に使うことも惜しまず。仕事(公務)で忙しくて家庭を顧みる暇がない。家庭外では活発だが、家庭内では怠惰で、家庭内の事情を全く把握せず、早朝に家を出て夜にならなければ帰らず、時には夜分に外出することや突然旅行することもある。主人は客で家はまるで旅館であり、家族団らんの楽しみを共にしたことがなく、三日間父子の間で言葉を交わさないことも珍しくない。そしてたまたま子どもの話を聞けば、突然子どもの行動を上辺だけで判断し、これを叱るだけである。主人の言いぶりは常に家内安全・質素正直を基本とし、その説教を聞けば味があるように聞こえるが、仕事関係の人に会えば、いつもの説教もたちまち勢いを失い、何事も仕事を言い訳にして、出費をし、家を省みず、酒を飲み不摂生をし、さらにひどいと、人を騙し嘘を言うことも仕事の中に入ることもある。この家の有様を大まかにいえば、家庭外の仕事が最大の権力を持ち、家事はその力を伸ばすことが出来ない。外を以て内を制し、公を以て私を束縛するものというべし。
このような悪風の弊害は、決して一家庭内でとどまる所ではなく、もっ広い影響がある。それを説明しよう。
政談家が常に民権退縮・専制流行の一か条を憂いている。いかにも社会に良くないことであり、これを改めようとする主張は尊重すべきだが、未だにその原因を追究しつくした者ではない。そもそも一国の政府にしろ会社にしろ専制が行われるのはなぜか。必ずしも1人の君主または頭取が独裁的な力で他の人々を苦しめているためではない。大勢の人々の力を集めて政府や会社と名付け、集まった力によって各個人の権利を制限し、その自由を妨げているのである。この勢力を名付けて政府の御威光といい、会社の力と言い、この勢力を以て行うことを名付けて事務、つまり公務という。公務を取り扱う人を名付けて政府の役人、会社員の役員といい、役人が理不尽に威張る政府を暴政府といい、役員が理不尽に威張る会社を暴会社という。すなわち、民権が退縮して専制が流行することである。
もう一度、家庭内のことについて目を向けよう。前述したような「外を以て内を制し、公を以て私を束縛するもの」と言えるような状態の家庭で養われてこの事情を目撃する子どもに果たしてどんな習慣ができるだろうか?家内安全を守る道徳の教えも大切なことは大切だが、さらに大切な公務にはかなわないものとなり、公務に対して卑屈になる習慣を養成し、成長して社会の一員となって、家庭外の仕事をするようになれば、生まれながらの習慣がたちまち現れ、公は私を束縛すべきものといってはばからないようになるだろう。
今の政談家は世の中で専制が流行しているのを察し、その原因を現在に求めてこれを改めようと欲しているようだが、思うに外はよく見ているが内を見ていないと言えるだろう。人間社会は家庭が集まったものであり、その悪事の元はもともと家庭内にあるものである。家庭は社会の学校であり、社会で専制を働く者は、この学校の卒業生である。故に、社会を改革したいならばまずその学校(家庭)を改革すべきである。
前述した鬼蛇父母や公務家はかりにも上等社会の人間で金銭に不自由がない人なので、その子どもに学問を教えたいと思わない者はいない。しかし、その子どもを教える方法を聞けば、子どもを学校に寄宿させたと言い、見るからにそれで安心しているようだ。案ずるにこの輩は、学問は数を学び文字を知ることと考え、文字を知ることは学問の一部分でしかないことを忘れているのだろう。習慣の力は教授の力よりも大きいことを知らないのか?子どもは家でその習慣を形成するのを知らないのか?父母の教えは学校教師の教えよりも深いことを知らないのか?断じて言おう、父母に学才があるならば、十歳前後の子を今の学校に入れてはいけず、または他人に託すべきではない。たとえ学校に入れて他人に託したとしても、完全に放って父母との教育の関係を断つべきでないと私は断じて言おう。
そうとはいえど、実際には各家庭に様々な事情があるため、言ったとおりにあえて強制しようとしているわけではない。世間で学問・人格ともに優れた人(士君子)とも言うべき人が、その子を学校に入れた趣旨を述べて口実をつけるが、筋が通ってないものが多いと感じてこれを咎めているだけである。
家庭内外の仕事が忙しく子供を教育する暇がという口実を言う者は何用で忙しいのか、その用を子どもを養育する大切さと比べたことはあるのか?甚だ疑わしい。また、仕事を好むわけではないが経済的に家を支えるために、子どもを学校に入れざるを得ないという口実を言う者は、まだ同情の余地があるが、家を支えるのに必要な金銭の額は、普通の生活を支える以上の額となっていないか?質素に家を支えて余暇を取り、子どもを教育する機会はとれないのか?それを試みたことがあるのか、甚だ疑わしい。
また、経済的な余裕もあり、自分に余暇がない訳ではないが、人に教える学才が足りてないから子どもを学校に託したのだという口実を言う者は、最もらしい口実だが、到底許せない言い訳である。子どもに文字を教えるのは一部分で、寝食・礼儀・運動・養生の教えがあり、これらの教育には父母を除くほか良い教師を得るのは難しいことである。ただ文字を知らない一つをとって、他の大切なことを他人に託すのはどういうつもりだろうか。古来、一文字も知らない母が、子どもを育てて天下の一大家となした例もある。
以上のように、口実を付けて逃れようとする者はまだましである。口実を用いる者さえもいない世の中こそ憐れむべきだ。結局、子どもを学校に入れる者の内心を明らかにすれば、自分で子どもを教育しこれに注意するのが面倒だということに過ぎない。いったん学費を払って学校に入れれば、これを放し飼いにしたように、その子が何を学んでいるかを知らず、どのような行状かをしらず、教育に教師ありと言って、自分の荷物を他人に背負わせて楽しているようなものである。たまたま自分の子の不品行を聞けば、手もとに呼んで厳しく叱るだけである。この様子を見れば、学校はあたかも不用な子どもを放棄する場所のようである。このような有様ではたとえその子を天下第一流の人物・学者足らしめようする至情があっても、人には言えないもので、実際には行われがたいだろう。枯木に花を求めるとはこのことである。
そもそも前述のとおり、私の意見とて必ずしも天下の父母に全て自らその子を教育させようとしているわけではない。ただ希望する所は、たとえその子を学校に入れるにしても、あるいは自宅で教えるにせよ、親の学力や経済力の都合で良い学校を選んでそこに入れるより他に名案がないといっても、いずれにしても少しでも父母の心身を労し、少しでも家庭の教育が大切であると思ってこれに気にかけ、教育の地位を高めて、最も重要なことにして欲しいと願うのみである。
現代において教育に気にかけていない証拠を見つけようとすれば、世間の事実を見れば明らかである。世の士君子の中には役人となる者もいるが、子どもの教育のために余暇を得ようとして月給の高い官職をやめた例を聞かない。商売をしているもので商売の景気を探ろうとして奔走する者は多いが、子どもの良い教育法を知ろうとして、遠出したり十円の金銭を用いたものを聞かない。旅行する者で、千里の道も即日したくして出立するのに、子どもを教育するのに不便だと一晩でも費やして進退を考えた者がいるのを聞かない。転居する者で、豆腐屋と酒屋の近さや最近流行の空気の良さなどを考慮するのに、子どもの心に関わるその土地の風俗を気にする者がいるのを聞かない。世の中には宗教を信じて将来天国に行くことを祈る者もいるが、不良の子にいじめられる苦痛は地獄のよりも苦しい。人の信心を否定するつもりはないが、それほどまで深謀遠慮があるならば、少しその謀を浅くして目の前の子どもを教育し、まず現世の地獄を逃れて、然る後に未来の極楽を狙いたいと思うものだ。
以上のことは一人の教育を論じたものだる。上等社会で金銭的に余裕がある良家の子どもを学者仕立てに教育する心得だが、広い日本中に経済的な余裕があり、余暇もある人はそう多くはない。そうではない人々のための教育の仕方は今まで記した者とは全く違う者にならざるを得ない。最初に言った通り一人の教育と一国の教育を区別している理由である。一国の教育についてはまた他日論ずることもあるだろう。
考えたこと
① 福沢の視点は家庭から社会までつながる
この論説を書いた明治10年代あたりは有司専制政府に対する自由民権運動による政府批判が盛り上がったころです。彼は民権運動家が原因の本質をとらえていないと指摘し、仕事人間の親の影響を受けてしまい、公を以て私を制する習慣を身に付けた人々が社会に出ることで専制的な社会になってしまうと福沢は説く。
ここで述べていることが正しいかどうかはおいて、社会の雰囲気と家庭教育は大いにつながりがあると思う。社会が家庭教育に最初に影響を与えるのか、家庭教育が社会の雰囲気を作るのかは「鶏が先か卵が先か」の議論になってしまうので、ここでは追究しない。
例えば現在、育休制度が整備されたが、それが十分に男性によって活用されているとは言えない状況である。制度はあるのに、なぜ活用されないか?その一因は、会社、いや社員の理解が得られないからである。男は家庭より仕事を優先すべきという価値観の元で育った人物からしたら、育休をとる男などやる気のない男に見えるだろう。現代においても「公務家」の影響はあるといえるだろう。
② 学校にお任せの親
福沢は学校に寄宿させて放置する親を批判しているが、似たような親は現代にもいる。寄宿させてなくても、全部学校に子どもの教育はお任せしますという親だ。学校は教育を施すところ、という認識だと全ての教育は学校が担うものだという認識が生まれやすいのだろう。学校生活の中で他者と共同する力や道徳もみにつくが、学校が担う教育の中心は教科教育である。道徳や生活習慣、食育などの基本は家庭で養うものであることを忘れてはならない。