【映画】ロボコップ (再見)
https://ja.wikipedia.org/wiki/ロボコップ
1987年の公開当時、高校生だった頃に一人で渋谷に観に行きました。
渋谷は当時まだ自分には無案内で、レトロな喫茶店が並ぶエリアに迷い込んでタイムスリップしたかと焦った思い出があります。
当時かなり気に入っていたように思いますが、ロボコップのデザインにはそれほどハマらなかったことなどもあってか、2や3やリメイク版は未見のままです。
そんなロボコップをAmazon Primeで再見。
バイオレンスアクションとして人気の本作ですが、なかなかどうしてSF映画の名作だなと思いました。
犯罪のはびこる街の治安を回復するためにロボットの警官を導入しようとの設定ですが、なんでもかんでも民営化される社会が描かれていて、新自由主義に突き進んだその後の米国や日本を思わせます。
本来、警察や軍隊のような暴力装置は民間企業のような存在に委ねてはいけないということだと思うんですが、そうすることの問題点が端的に描かれているのが良いです。
公的サービスは公的機関が管理するべきだけど、その公的機関もあまり信用できないので民間の利潤追求型の組織の方がいいかも、っていうのは80年代以降ずーっと続いていて、民営化の問題点が多々浮き彫りになる昨今ではリアリティがあります。
そんな荒んだ世界観が冒頭から広告表現などを通じて描かれているのが秀逸な本作ですが、警察もののバイオレンスアクションとして始まり、主人公マーフィーが「殺される」残虐シーンのあとが良いです。
彼が意識を取り戻し、歩き始めるまでを彼の主観映像でのみ見せる、自分の姿は鏡にチラッと映るだけっていう演出にはいろんなSF映画が思い出されました。
とりわけ本作の少し前、『ターミネーター』がロボットの主観を上手に使って人間ならざるものの世界観を表現したのが記憶に新しいところでした。
手法的には『2001年宇宙の旅』のHAL-9000のカメラの映像を見せることでも同じような表現が行われていて、目新しいことはないがわかりやすい描写です。
この時に人々が祝福する様子が映し出されますが、その感覚は『時計じかけのオレンジ』のラストシーンにも通じるものがありますね。
あの、「モンスター復活」の印象的なラストシーンを、ここでは物語のスタート地点で再現しています。
モンスターという意味ではフランケンシュタインも確実に意識されているのですが、ボリス・カーロフの『フランケンシュタイン』にそんなシーンがあったかは覚えてません。
思えば『スター・ウォーズ エピソード3/シスの復讐』も『ロボコップ』の影響下にあるのかも。
ロボコップとなって復活したマーフィーの活躍、彼が悪夢に悩まされ、人間だった記憶を回復するまでが非常にテンポ良く描かれていきます。
基本的に本作に出てくる犯罪者は「ヒャッハー」系で、常に雑なふるまいをする連中なので、映画自体が雑に見えがちですが、マーフィー自身に焦点をあてる場面では雑な感じはまったくないですね。
人間とロボットの間で揺らぐマーフィーの自我、みたいなものをピーター・ウェラーが見事に演じています。
この作品の設定で恐ろしいところは、心身のいろんな部分を機械化するだけで「お前は機械だ」と思い込ませて人間を制御しようとするロボコップ計画のコンセプトです。
ED-209との対比として判断力に優れることがロボコップのアドバンテージとされていますが、要するに「奴隷」のコンセプトそのものであるわけです。
人間並の知力判断力があるが権利だけがない存在が「奴隷」ってことなんだと思うんですよね。
このことをうっすらと感じているらしいのが、ヒロインのアン・ルイスというわけですが、どうも署長もそうかもしれないと思える演技をしていました。
傍若無人なオムニ社幹部への敵意もあるんでしょうが、かつてマーフィーだった存在を機械人形として扱うことへの反感があるように見えました。
これが女性と黒人であることは意識されていたのかどうか……
アンも署長もそんなに個性的なキャラクターではないので、類型的な人物配置の単なる結果かもしれません。
「アメリカ映画の署長と軍曹ってだいたい黒人だよな」って思っちゃいましたからね。
アンの助けを得て自分を殺したクラレンスへの復讐のようなバトル、そこから巨悪への戦いに挑む終盤は非常に盛り上がります。
ラストシーンで居直ったラスボスに「お前はクビだー!!」と叫ぶ社長、それを受けて「ありがとう」と言うマーフィーには笑いましたが、積み上げてきた暴力演出が最大の効果をあげた感じがありました。
自らの名を名乗るマーフィーというラストシーンで人間性が回復されたと感じられるわけですが、人間と機械の二項対立を克服したかのようにも思え、サイバーパンクのコンセプトが娯楽映画に結実したと思えます。
この二項対立の克服、超克のようなものはサイバーパンクの重要な過激さであり本質ですので、娯楽映画の暴力表現がそれを可能にした感もありました。
あとは、気になった点を少々……
-本作の主役を演じたピーター・ウェラーは、ミュージシャンのポール・ウェラー、『ピクニックatハンギング・ロック』などの映画監督ピーター・ウィアーと名前が似ており要注意(『オデッセイ』の原作者アンディ・ウィアーも名前が似ていますが時代が全然違うので大丈夫)。
さらにクローネンバーグの『裸のランチ』にも出たせいで同じ監督の『ヴィデオドローム』のジェームズ・ウッズや『デッドゾーン』のクリストファー・ウォーケンともなんとなく混ざってきます。
-アンがサイボーグになって復活するシーンは欲しかった。2とか3にもそういう場面はなさそう。
-ED-209の動きや声、とりわけぶっ倒されてヒーヒー鳴いている可愛らしさ、フィル・ティペットの素晴らしいモデルアニメーションは作品の魅力を高めています。
-有毒廃液に侵されて変形した悪役の場面に何か意味がありそうだなって思ったのですが、上記の論に組み込む要素は特に思いつかず。ロブ・ボッティンにやりたいことやらせてあげよう!っていうだけかも。って思えるような素晴らしい特殊メイクです。
-CDのようなメディアをデッキに挿入すると映像が再生される描写がありますが、DVDが開発されるより以前のこと。もっとも、当時の感覚でもスゲェとは思わなかったかな。
-大規模都市開発で労働者を大量に集めるから、麻薬とギャンブルと売春が必要だ……っていう悪だくみの場面がありますが、割とそのまんま、大阪IR(と、その前振りたる万博)だなって思いました。それでいて治安の悪化を抑止する手段を一所懸命考えるところ、オムニ社はなんというか、プロジェクトマネジメントの発想は持ってる。万博に間に合わせるために根性出せって言ってるわが国の政権や政党は、映画に出せるほどのリアリティも持ってないってことです。